「両税法」の版間の差分

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'''両税法'''(りょうぜいほう)[[中国]]に於いて[[唐]]中期から[[明]]中期まで行われた[[税制]]のことである。[[夏]]と[[冬]]の二回徴税されるのでこの名前がある。[[均田制]]・[[租庸調制]]に代わって施行された。
 
== 前段階 ==
[[北魏]]より行われていた均田制・租庸調制は全ての民衆を農民と見なし、一律に農地を支給し、一律に同額を徴税すると言う制度であった。
 
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租庸調制では本籍を元に徴税するために客戸からは徴収できない。また大土地所有者に対しても普通の農民と同じだけの一人分の徴収しか行えない。これによる税収の減収を政府は臨時に発する地税・[[青苗銭|青苗税]]・戸税などの税で補っており、普通に税を納めている下層の自作農に対しての負担が過重となっていた。更にこれに加えて[[安史の乱]]以降に顕著となった[[節度使]]による地方割拠の状態はこの負担を増加させており、政府の減収と併せて唐を覆す危険性を孕んでいた。
 
== 両税法 ==
[[建中 (唐)|建中]]元年([[780年]])、[[徳宗 (唐)|徳宗]]の宰相[[楊炎]]の建議により両税法が施行された。両税法の骨子は以下のようなものである。
#主戸(本籍に住んでいる農民)・客戸の区別無く、資産額に応じて戸等([[主戸客戸制]]を参照)を決定し戸税を徴収、耕地面積に応じて地税を徴収。また、有産の客戸を主戸に編入した。
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3と4はそれぞれ商業活動の活発化を示すものである。また、安史の乱をきっかけとした塩の専売制強化をきっかけに農民生活に貨幣が必要になった事や財政難を貨幣発行で賄おうとした政策との関わりも指摘されている<!--古賀、2012年、P294-314--> 。また5は一面には歳入の範囲内での健全な財政を保てなくなった証左であるが、別の一面からは節度使が無軌道に税を徴収することを戒め、政府が管理できる範囲内でのみ予算を立てさせると言う意味合いがある。
 
== 両税法の影響 ==
[[律令制]]の根幹であった均田制を自ら捨てたこと(ただし形骸のみはその後も残った)は、別の見方からすれば大土地所有を公認したことになる。これ以降の唐では土地の兼併が更に進み、[[荘園]]は巨大化する。
 
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その後の[[五代十国時代]]・[[北宋]]・[[元 (王朝)|元]]・[[明]]と両税法は受け継がれていくが、明代中期になると付加税が増え、不均衡が過大となり、宰相[[張居正]]により[[一条鞭法]]が施行され、両税法は廃止された。
 
== 参考文献 ==
*『唐代両税法の研究 本篇』 ([[日野開三郎]]東洋史学論集④、三一書房、[[1982年]])
*『宋代税制史研究』([[島居一康]]、汲古書院、[[1993年]])