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[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]との第1回[[1950年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも3本塁打を打ち、第6試合では4点リードされて無死満塁では毎日から同点本塁打を警戒されて敬遠された(投手は[[若林忠志]])。岩本自身が「ノーアウト満塁で敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。シリーズは、初戦岩本の無謀な三盗などで毎日に敗れた。このプレーは岩本の“ミステリー走塁”と言われている。
 
[[1951年]][[8月1日]]の対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]戦([[上田城跡公園野球場|長野上田球場]])では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録<ref name="sponichi09"/>、[[二塁打]]も放ち1試合18[[塁打]]のプロ野球記録を達成<ref name="yakyutaro20151210 "/>。この二塁打も左翼フェンス上部を直撃したといわれている<ref>関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P122。</ref>。31本塁打([[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]、[[青田昇]]と1本差<ref><small>青田残り1試合で同数だったが最終戦で青田が1本打つ。岩本は残り6試合で0本に終わった(関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P194。</small></ref>)、打点87、打率2位.351([[首位打者]]、[[川上哲治]].377)、[[長打率]]1位、盗塁は10。この年[[4月22日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦から[[6月6日]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦まで27試合連続ヒットを記録。この記録は[[1976年]]に[[張本勲]]に抜かれるまでセ・リーグ記録だった。前年とこの年に、二年連続で外野手シーズン最多補殺8という、セ・リーグ記録も残している。
 
[[1952年]]に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]に移籍。[[1953年]]に松竹ロビンスとの合併で、松竹が小西監督の続投に難色を示し監督就任を要請されたが、小西の顔を立てて辞退し小西監督の続投となった<ref>関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P102 - 103。</ref>。この年はシーズン24[[死球]]を記録した<ref name="yakyutaro20151210 "/>(55年間日本記録だったが、[[2007年]]に[[グレッグ・ラロッカ]]が記録を更新した)<ref name="sponichi09"/>。岩本は頭部に死球を受けても平然と一塁に歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったという伝説がある。[[張本勲]]の話ではヒビの入った[[頭蓋骨]]の[[X線写真|レントゲン写真]]を見せてもらった事があるという<ref>[[サンデーモーニング]]、2007年9月23日放送。</ref>。また"岩本のあんちゃんはケンカが強い"と雷鳴が鳴り響いていたといわれる。ただ[[鈴木龍二]]は「岩本君より[[大岡虎雄|大岡君]]の方が強い」。[[大和球士]]は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している<ref>『プロ野球史再発掘(5)』、P105 - 107(この対談でもう一人名前が挙がっているのは[[森徹]])。</ref>。