「マクシミリアン (メキシコ皇帝)」の版間の差分

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| 継承者 = [[アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーン]]
| 継承形式 = [[皇太子]]
| 配偶者1 = [[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|カルロータ・デ・ベルギカ]]
| 子女 =
| 王家 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家|アブスブルゴ=ロレーナ家]]
| 王朝 =
| 王室歌 =
| 父親 = [[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール大公]](公式)<br>{{仮リンク|ライヒシュタット公|fr|Duc de Reichstadt|label=ライヒシュタット公爵}}([[ナポレオン2世]])
| 母親 = [[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー・フォン・バイエルン]]
| 宗教 = [[キリスト教]][[カトリック教会]]
| サイン = Maximilian signature BW.png
}}
'''マクシミリアーノ1世'''({{lang-es|Maximiliano I}}、[[1832年]][[7月6日]] - [[1867年]][[6月19日]])は、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]出身の[[メキシコ第二帝政|メキシコ]][[メキシコ皇帝|皇帝]](在位:[[1864年]] - [[1867年]])。全名は、'''フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''({{lang-de|Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen}})、'''フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ=ロレーナ'''({{lang-es|Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena}})。[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世]]の弟。妻は[[ベルギー国王の一覧|ベルギー国王]][[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]の王女[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン]]。
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父の[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール]]大公は神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]](後のオーストリア皇帝フランツ1世)の成年を迎えた二人の息子の一人であり、父方ではハプスブルク=ロートリンゲン家であり、母ゾフィーは[[プファルツ=ビルケンフェルト家|ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン王女であった{{sfn|Palmer|1994|pp=3, 5}}{{sfn|Palmer|1994|p=3}}。知性と野心と強い意志のあるゾフィーは夫とはまったく共通するところはなかった。歴史家のリチャード・オコナー({{lang|en|Richard O'Conner}})はフランツ・カール大公を「人生の最大の主要な関心事は肉汁たっぷりの[[ミートボール]]を平らげることだという鈍重な肥った男」と表現している{{sfn|O'Connor|1971|p=29}}。そのような人柄の違いにも関わらず、この結婚は実りの多いものとなり、4度の流産の後、マクシミリアンを含めて4人の子供が生まれ育った{{sfn|Haslip|1972|p=7}}。
 
ウィーン宮廷の噂によれば、マクシミリアンは実は、ゾフィーと[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]とフランツ1世の皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー=ルイーズ]]の間の唯一の息子でマクシミリアンのいとこにあたる'''{{仮リンク|ライヒシュタット公|fr|Duc de Reichstadt|label=ライヒシュタット公爵}}'''こと[[ナポレオン2世]]との間の[[婚外子]]ではないかという説があるが(そうであるならマクシミリアンはナポレオン1世の孫、フランツ1世の曾孫になる){{sfn|Ridley|2001|p=44}}、このゾフィーとナポレオン2世の不倫の問題の存在と可能性とマクシミリアンがその賜物であるという説は歴史家によって退けられている{{ref label|specialnotes1|A|none}}。
 
===教育===
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<li>{{note label|specialnotes1|A|none}}
「そのようなありそうもない性的関係の証拠はゾフィーとライヒシュタット公爵の愛情による結びつきの理解を誤らせる。二人はお互いを外国の宮廷での順応に尽きず待った部外者と思っていた」とアラン・パーマーは言った{{sfn|Palmer|1994|p=3}}。
パーマーいわく、「彼らの『自信』は恋人というよりも姉と弟のそれである」{{sfn|Palmer|1994|p=3}} ジョン・ハスリップ(Joan Haslip)によれば、彼女とライヒシュタット公爵が恋人同士だったと示唆する文書での証拠はない{{sfn|Haslip|1972|p=4}}。「ナポレオン2世が実際にマクシミリアンの父かどうかは、怪しげな推測か、[[ホーフブルク宮殿|ホーフブルク]]のながい冬の夜の宮廷人と使用人によって語られたゴシップのようなもの」とリチャード・オコナーは言った{{sfn|O'Connor|1971|p=31}}。「この噂を補強する証拠の断片もない」とJasperジャスペール・リドリー(Jasper RidleyRidley)は断言した{{sfn|Ridley|2001|p=44}}として以下のように続ける「ゾフィーは聴罪司祭への手紙に『'''マクシミリアンはナポレオン2世の子供だった'''』と告白しており、この手紙は1859年に見つかり、破棄されたといわれる。しかしこの話を信じる道理がない。彼女が子供あるいは弟と認識している少年と[[性行為|性的関係]]を持とうとするだろうか?」{{sfn|Ridley|2001|p=45}} 1832年のライヒシュタット公爵の死後二人以上の息子の誕生はこの主張の信憑性をなお一層低下させる{{sfn|Ridley|2001|p=45}}</li>
パーマーいわく、「彼らの『自信』は恋人というよりも姉と弟のそれである」{{sfn|Palmer|1994|p=3}} Joan Haslipによれば、彼女とライヒシュタット公が恋人同士だったと示唆する文書での証拠はない{{sfn|Haslip|1972|p=4}}。
「ナポレオン2世が実際にマクシミリアンの父かどうかは、怪しげな推測か、ホーフブルクのながい冬の夜の宮廷人と使用人によって語られたゴシップのようなもの」とリチャード・オコナーは言った{{sfn|O'Connor|1971|p=31}}。
「この噂を補強する証拠の断片もない」とJasper Ridleyは断言した{{sfn|Ridley|2001|p=44}}として以下のように続ける「ゾフィーは聴罪司祭への手紙に『'''マクシミリアンはナポレオン2世の子供だった'''』と告白しており、この手紙は1859年に見つかり、破棄されたといわれる。しかしこの話を信じる道理がない。彼女が子供あるいは弟と認識している少年と性的関係を持とうとするだろうか?」{{sfn|Ridley|2001|p=45}} 1832年のライヒシュタット公爵の死後二人以上の息子の誕生はこの主張の信憑性をなお一層低下させる。{{sfn|Ridley|2001|p=45}}</li>
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