「大内義興」の版間の差分

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暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年([[1495年]])9月18日に父が死去すると{{sfn|福尾猛市郎|1989|p=38}}、名実ともに大内氏の当主となる。
 
ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった[[陶武護]]が帰国して、代わりに家督を継いだ弟の[[陶興明]]を明応4年([[1495年]])2月に殺害した。そして[[陶武護|武護]]は「長門守護代の[[内藤弘矩]]が弟の尊光を擁立しようとした」と義興に讒言した。それを信じた義興は明応4年(1495年)[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]に兵を防府にさしむけて、弘矩と子の[[内藤弘和|弘和]]を誅殺してしまった<ref name=大内系図/>。ただし、後に内藤父子の冤罪を知り、讒言した武護を誅殺し、弘矩の娘を正室に迎えて弘矩の弟である[[内藤弘春]]に内藤氏を再興させ、同じく陶氏も末弟の[[陶興房]]に継がせて再興させた。弟・大護院尊光の擁立に関しては明応8年([[1499年]])に現実のものとなり、重臣の[[杉武明]]が反乱を起こしたが、義興はこれを鎮圧して武明を自殺させ、尊光は[[大友氏]]を頼って[[豊後国|豊後]]に亡命した{{sfn|福尾猛市郎|1989|p=38}}。ところが、内藤弘矩・陶武護・杉武明の誅殺については通説と異なる話(例えば、内藤弘矩は陶武護とともに謀反を起こそうとして先代当主である政弘に殺された説(『晴興宿禰記』明応4年3月21日条)の存在や、杉武明が直前まで義興の信任を受けていたこと)が伝えられ、大内氏内部により複雑な政治的対立があったとも考えられている。そして、父・大内政弘の存命中に[[陶弘護]](武護・興明・興房兄弟の父)・内藤弘矩が亡くなり、有力重臣である陶氏・内藤氏を一時没落させたことが、後を受けた義興の地位を安定させることにもつながった{{sfn|藤井崇|2014|pp=7&sbquo;517‚51&ndash;53&sbquo;6053‚60&ndash;63}}。
 
=== 九州進出と前将軍亡命 ===
[[File:Yoshioki Ouchi's statue.JPG|thumb|250px|大内義興像(山口市[[龍福寺 (山口市)|龍福寺]]資料館)]]
大内氏は長い間北九州で大友氏や[[少弐氏]]らと合戦を繰り広げながら、勢力を拡大してきたが、[[大友政親]]が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで彼女が生んだ[[大友義右]]が家督を継いだことから義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれた。ところが、明応5年([[1496年]])に義右が急死すると、義右が対立していた父の政親が毒殺したという噂が流れ、実権を取り戻した政親は北九州の大内領侵攻のために兵を挙げた。ところが、政親の乗った船は遭難して事もあろうに大内氏の本拠地である長門国に辿り着いてしまう。義興は激怒して政親を捕らえて切腹させてしまった。事件の背景には大内氏の勢力拡大と[[北陸地方]]に亡命中の前将軍・足利義材との連携を恐れた細川政元の暗躍があったとみられる{{sfn|藤井崇|2014|pp=7&sbquo;537‚53&ndash;56}}。その後、義興は[[大友親実]](大聖院宗心、[[大友親綱]]の子)を大友家の後継者にしようとしたが、政親の弟[[大友親治]]の反抗によって失敗している。また、前述のように明応8年(1499年)に反乱に失敗した義興の弟・大護院尊光が亡命したのも大友親治の下であり、彼は細川政元が擁していた将軍[[足利義澄|足利義高(義澄)]]の偏諱を受けて大内高弘と名乗っている。
 
一方、筑前国の奪回を狙っていた[[少弐政資]]・[[少弐高経|高経]]父子も大友政親・親治兄弟と結んで[[肥前国]]から筑前国に兵を進めて大内軍と戦っていたが、義興も明応5年([[1496年]])暮れには[[赤間関]]に兵を結集させ、[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に筑前に向けて出陣した<ref name=五社参詣次第>『五社参詣次第』</ref><ref name=肥陽軍記>『肥陽軍記』</ref>。明応6年([[1497年]])[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]に博多の聖福寺門前で、[[3月15日 (旧暦)|15日]]には筑紫村と高鳥居城で戦い{{sfn|近藤清石|1885}}、筑前に攻め込んだ少弐父子を破って肥前へと侵攻。[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]、[[肥前国|肥前]][[朝日城]]を攻略{{sfn|近藤清石|1885}}。[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]、少弐政資を[[小城城]]に包囲した{{sfn|近藤清石|1885}}。いったん山口に帰国した義興は[[4月16日 (旧暦)|16日]]、周防国一宮の[[玉祖神社]]、二宮の[[出雲神社]]、三宮の[[仁壁神社]]、四宮の[[赤田神社]]、五宮の[[浅田神社]]に参詣した<ref name=五社参詣次第 />。[[4月18日 (旧暦)|18日]]、小城城は落城し少弐政資は逃亡したがのちに自害した{{Efn|『肥陽軍記』では、落城したのは千葉胤資が守備する晴気城であり。落城後少弐政資は多久梶峰で切腹し、少弐高経は東肥前城原の城が落城後、広瀬山で自害したとある{{sfn|近藤清石|1885}}。}}。
 
その後も少弐氏に攻められていた[[九州探題]]の[[渋川尹繁]]を支援する。明応7年([[1498年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]、肥前国[[綾部城 (肥前国)|綾部城]]に攻められていた尹繁のもとに援軍として派遣した[[仁保護郷]]が、肥前[[基肄郡]][[養父郡]]で戦い勝利している{{sfn|近藤清石|1885}}。また[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]にも護郷は肥前[[三根郡]]で戦いここでも勝利した{{sfn|近藤清石|1885}}。このように義興の軍勢は勝利を重ね肥前国における自らの勢力も広げた。
一方で大友氏との戦いでは防戦を強いられる。明応7年([[1498年]])[[11月 (旧暦)|11月]]、豊後国に[[右田弘量]]と[[末武長安]]を派兵するが、[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]豊後[[玖珠郡]]青内山での戦いで大内軍は敗れ弘量は戦死、長安は負傷する<ref name=大内系図/><ref name=東寺過去帳>『東寺過去帳』</ref>。宇佐郡の郡代であった[[佐田泰景]]が一時大友軍の捕虜にされるなど苦戦している{{sfn|藤井崇|2014|pp=7&sbquo;567‚56&ndash;60&sbquo;6560‚65}}。
 
そんな最中の明応8年12月30日(1500年1月30日)に諸国を亡命していた前将軍・足利義尹(明応7年(1498年)義材より改名)が義興を頼って山口に入った。義尹は自らを現在でも現職の将軍であると主張して山口に自らの幕府を置き、義興も細川政元に対抗して義尹を擁して上洛しようとしていた。これに対して、足利義高・細川政元は大友親治・大内高弘・[[少弐資元]](政資の3男)・[[菊地武運]]・[[阿蘇惟長]]らに義興討伐を命じるとともに、文亀元年閏6月9日(1501年7月23日)には[[後柏原天皇]]から義興討伐の[[綸旨]]を獲得した。こうして義興は「朝敵」ということになり、続いて将軍義高の御内書と奉行人奉書が出されて改めて西日本の大名・有力国人28名に義興討伐が命じられた。
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この時の義興の活躍は相当のものだったようであり、永正9年([[1512年]])3月にはその武功により、従三位に上階されて[[公卿]]に列せられた。これは将軍である足利義尹の意向を押し切って後柏原天皇自らの決断で決めた決定(『実隆公記』永正9年3月26日条)であったが、義尹は最終的な判断は天皇に任せる旨を述べたため同意せざるを得なかった{{Efn|なお、高国にも同様の打診(従四位下上階)があったが、これを辞退すること(『実隆公記』永正9年3月28日条)で、上階の栄誉を義興1人に与えつつ、代替に同じく名誉とされた将軍・義尹の御成を受けることでその意向にも配慮している。{{sfn|浜口誠至|2014|pp=91&ndash;93, 227&ndash;229}}。また、娘を[[足利義維]](義澄の次男)に嫁がせ[[足利将軍家|将軍家]]の親族ともなった。永正13年([[1516年]])には大内氏に[[日明貿易]](遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする[[御内書]]と[[奉行人]][[奉書]]が与えられた。これは細川高国の反対を押し切ったものであり、後の[[寧波の乱]]の原因となる。
 
しかし次第に将軍・足利義稙(永正10年(1513年)義尹より改名)や細川高国と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった領国の[[石見国|石見]]や[[安芸国|安芸]]の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ{{sfn|藤井崇|2014|pp=105&ndash;108&sbquo;118108‚118&ndash;124}}。そこへ[[出雲国|出雲]]の[[尼子経久]]が侵攻を開始してきた。義興ははじめ在京して尼子氏を討つため、永正14年([[1517年]])に石見守護となり、[[益田氏]]や[[吉川氏]]など石見在地の豪族と手を結んだ{{sfn|福尾猛市郎|1989|p=39}}(ただし、尼子経久の侵攻と義興の石見守護補任については異なる解釈もある{{Efn|長谷川博史や藤井崇の説によれば、尼子経久の大内領侵攻に動き始めたのは義興の帰国以降の出来事であり、そのきっかけは義興が石見守護に任ぜられたことに反発する前守護・山名氏の被官が経久を頼って小競り合いを繰り広げたことにあるとする。そして、大内氏と尼子氏の本格的な衝突は出雲支配の確立を目指す尼子氏と出雲国境に影響力を有していた備後の国人・[[山内氏]]や安芸の国人・[[宍戸氏]]との対立が原因であったとする{{sfn|藤井崇|2014|pp=141&ndash;144}}。}})。しかし尼子氏の勢力拡大は抑え難かったため、永正15年([[1518年]])8月2日に管領代を辞して堺を出発、10月5日に山口に帰国した。
 
=== 尼子氏との戦い ===