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'''太宗'''(たいそう)は、[[唐|唐朝]]の第2代[[皇帝]]。高祖[[李淵]]の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。[[隋]]末の混乱期に李淵と共に[[太原郡|太原]]で挙兵し、[[長安]]を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、[[626年]]にクーデターの[[玄武門の変]]にて皇太子の[[李建成]]を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
 
広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、[[貞観の治]]と呼ばれる太平世を築いた。対外的には、[[東突厥]]を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた<ref>{{Cite book|和書|author=|title=詳説世界史研究(改訂版)|date=|year=|publisher=山川出版社}}</ref>。[[軽騎兵|騎兵]]戦術を使った武力において卓越し、[[文治]]にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる<ref>宮崎市定『大唐帝国』中公文庫</ref>。
 
== 生涯 ==
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同618年([[武徳]]元年)5月、唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、[[尚書令]]に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
 
李世民は武将として優れた才能を発揮し、[[薛仁杲]]・[[劉武周]]・[[王世充]]・[[竇建徳]]・[[劉黒闥]]といった[[隋末唐初の群雄の一覧|隋末唐初に割拠した群雄]]を平定するのに中心的役割を果たした。長兄の李建成は立太子され、李淵が急死した際にただちに即位する必要があるため、常に李淵の傍についていなくてはならず、李世民に比べれば戦功が少なくならざるを得なかった。
 
621年(武徳4年)、李淵は李世民の功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、'''天策上将'''の称号を王公の上に特置して李世民に与えた<ref>『資治通鑑』巻189</ref>。同年、門下省に修文館(太宗の即位後に弘文館に改名)が置かれた。
建国の戦功に比してその地位が報われていないと、李世民とその側近達は不満を有するようになった。その対策として{{要出典|date=2017年1月}}李淵は'''天策上将'''(てんさくじょうしょう)なる称号を李世民に与え、また弘文館と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。
 
しかしその後も世民側の要求は止まらなかった。李建成李世民はしだいに対李建成は李淵に訴えて世民の謀士である[[房玄齢]]と[[杜如晦]]を遠ざけるなどの対抗策を採り李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は二人と密かに連絡し、[[626年]](武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の[[李元吉]]を殺害する事件を起こした([[玄武門の変]])。この政変により、李淵は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。
 
=== 貞観の治 ===
即位して長孫氏を皇后に立てた太宗は即位、その直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受け。『[[旧唐書]]』等の史書によれば、怒りにまかせた太宗は僅か6騎を伴い[[渭水]]に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げたと記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている。この事件は[[cmn:渭水之盟|渭水之盟]]もしくは{{lang|zh|渭水}}と呼ばれる。
 
[[627年]]、元号を[[貞観 (唐)|貞観]]と改元した。そして房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から[[魏徴]]を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、[[三省六部]]制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
 
[[629年]](貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。[[李勣]]・[[李靖]]を登用して出兵し、[[630年]](貞観4年)には突厥の[[頡利可汗]]を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に'''天可汗'''の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である[[可汗]]より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に[[640年]](貞観14年)、西域の[[高昌国]]を滅亡させ西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。