「マックス・レーガー」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ヴァイデン・イン・デア・オーバープファルツ]]に育ち、早くも音楽教育を受ける。[[ミュンヘン]]と[[ヴィースバーデン]]で[[フーゴー・リーマン]]に[[音楽理論]]を学んだ後、[[徴兵]]されて[[従軍]]するが、このころから過度の[[喫煙]]や[[飲酒]]を嗜むようになり、[[1898年]]に除隊して実家に戻ったときには心身ともに虚脱状態に陥っていた。その後レーガーの創作力は目に見えて上向きになり、[[1901年]]には家族に対して、地元[[オーバープファルツ]]よりも音楽的な成果が期待できるとして、ミュンヘン行きを納得させられるようになっていた。
 
[[1902年]]、レーガー自身は[[カトリック教会|カトリック]]信徒であったにもかかわらず、[[離婚]]歴のある[[プロテスタント]]信徒の女性エルザ・フォン・ベルケン(Elsa von Bercken)と結婚し、結果的に[[カトリック教会]]から[[破門|無式破門]]に処せられた。ミュンヘン時代のレーガーは、作曲家としても、また演奏会ピアニストとしてもきわめて積極的に活動している。[[1905年]]にはミュンヘン音楽院の打診を受けて、[[ヨーゼフ・ラインベルガー]]の後任教授に就任するが、わずか1年後には保守的な同校と意見の食い違いを起こすようになっていた。