「浅沼稲次郎」の版間の差分

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|出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[三宅村]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1898|12|27|1960|10|12}}
|死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[千代田区]]・[[日比谷公会堂]]
|死没地 =
|出身校 = [[早稲田大学]]
|前職 = 関東木材労組・東京自由労組・東京製糖労組組合長
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'''浅沼 稲次郎'''(あさぬま いねじろう、旧字体:'''淺沼 稻次郞'''、[[1898年]](明治31年)[[12月27日]] - [[1960年]](昭和35年)[[10月12日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[東京府]][[三宅村]](現在の[[東京都]]三宅村)出身。[[日本社会党]]書記長、委員長を歴任。
 
巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓<ref group="注釈">浅沼稲次郎『[[私の履歴書]]』によると、[[田所輝明]]の戯れ歌が出典。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。</ref><ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html name="私の履歴書 ">浅沼稲次郎] - 『日本経済{{青空文庫|001487|51167|聞』「字新仮名|私の履歴書」 浅沼稲次郎}}</ref><ref>田所輝明『[{{NDLDC|1280605}} 無産党十字街]』先進社、1932年、 - 田所輝明 p. [{{NDLDC|1280605/45}} 69 [[近代デジタルライブラリー]]所収.</ref>」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた。しかし1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された3党首立会演説会で演説中に17歳の[[右翼]]少年に刺殺されるという非業の死を遂げた。
 
== 来歴・人物 ==
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[[三宅村]]神着地区の[[名主]]の[[庶子]]として生まれる。父が[[東京府]][[南葛飾郡]]砂村(現東京都[[江東区]])で[[酪農]]業をはじめ、稲次郎の母とは別の女性と再婚したのを期に実子として認知され引き取られた。その後[[東京都立両国高等学校|東京府立三中]]に入学。
 
[[医者]]になれという父の勧めを蹴り、[[大正]]7年([[1918年]])に[[早稲田大学]]予科に入学する。このことから父とはしばらく絶縁状態となり、稲次郎は友人の経営する文房具会社に参加して[[万年筆]]製作で糊口を凌いだという。早大在学中には[[早稲田大学雄弁会|雄弁会]]と恵まれた体格を活かして[[相撲]]部に在籍した。さらに漕艇部にも所属してレースにも出場し、[[大隈重信]]に体格の良さを褒められたと語っている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html name="私の履歴書" 浅沼稲次郎』日本経済新聞社] 青空文庫による復刊</ref>。軍部への協力を目的にした学生団体への抗議集会の際には、みずから演説し運動部員や外部の右翼団体に殴る・蹴るの暴行を受けるなどした。その後大正8年([[1919年]])秋、[[大正デモクラシー]]期における代表的な学生運動団体である[[建設者同盟]]の結成に加わることにより[[社会主義]]運動に飛び込み、同志たちと全国の[[小作]]争議や[[労働争議]]を応援する日々を過ごした。[[関東大震災]]発生時は群馬県で集会に参加しており、あわてて東京に戻ったが、農民運動社の建物に身を寄せていたところ兵士に捕まり、騎兵連隊の[[営倉]]に拘束され、のち市ヶ谷監獄に入れられて看守から態度が悪いと暴行を受けた<ref>「 name="私の履歴書」http:" //www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html</ref>。1923年に早稲田大学政治経済学部を卒業した後も、浅沼は社会主義運動を続け、1925年には日本で最初の単一[[無産政党]]である[[農民労働党]]の書記長に26歳の若さで推された。しかし、この党は結党わずか3時間で政府の命令で解散させられた。
 
=== 国家社会主義への傾倒 ===
[[1926年]]、単一無産政党として、[[労働農民党]]が結成されるが、まもなく[[社会民衆党]](右派)・[[日本労農党]](中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。[[1932年]]、分裂する無産政党を糾合し[[社会大衆党]]が結成されると浅沼もこれに加わったが、このとき浅沼は書記長の[[麻生久]]の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力によって社会変革を目指そうという[[国家社会主義]]的な路線を打ち出すとこれを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。[[1933年]]に[[東京市会]]議員、[[1936年]]には[[第19回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]に初当選。[[1940年]]に[[斉藤隆夫]]衆議院議員が、泥沼化する[[日中戦争]]に対して解決策を見いだせないまま戦争を継続する政府・軍部の姿勢を批判した[[反軍演説]]を行った時、その除名にも賛成した。
 
1940年に[[大政翼賛会]]が発足すると臨時選挙制度調査部副部長に就任した<ref>『昭和の代議士』[[楠精一郎]] 文春新書</ref>。しかし同年に麻生が急死、心のよりどころを失った浅沼の精神的苦痛は大きく、[[1942年]]の総選挙(いわゆる[[翼賛選挙]])での立候補も辞退し、国政から一時離れることになった。しかし、このことが戦後の公職追放を免れる理由ともなった。同じ年、東京市会議員選挙に立候補するが、官憲の妨害に合い落選。東京に都制が敷かれて最初の都議会議員選挙にも立候補し、当選して副議長に就任した。[[玉音放送]]は深川の自宅アパートで聴いた<ref>「 name="私の履歴書」http:" //www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html</ref>。
 
=== 日本社会党時代 ===
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[[1955年]]に[[社会党再統一]]が実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内で対立があると調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。
 
[[1959年]]、訪中した浅沼は[[中華人民共和国]]の「[[一つの中国]]」論に賛同し、「[[アメリカ帝国主義]]は日中両国人民の共同の敵」と発言した<ref>{{cite news |date=2015年5月9日 |title=【安保改定の真実(7)】先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が |url=http://www.sankei.com/premium/print/150506/prm1505060032-c.html |language= |newspaper=産経新聞 |accessdate=2015年8月17日 }}</ref>。草稿は党内左派で、浅沼が「ゴクサ([[極左]]の誤読)」と呼んだ[[広沢賢一]]に命じた物だった。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げた。[[自由民主党_(日本)|自民党]]の[[福田赳夫]]はすかさず抗議電報を打ち、「浅沼の失言」アピールに成功した。特に、帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽を着用して降りてきたことについては[[右翼]]はもちろん[[世論]]、党内の反発を受けた。[[曾禰益]]らからは今回の書記長の態度には同意できないとの主張がなされた。浅沼発言の背景としては、[[満州事変]]以来日本は侵略戦争を行ってきたとの考え方に基づき、自身も政治家の一人として積極的に戦争に加担したことにより中国人に損害を与えた悔悟の念を表したのではないかとされている。また、[[朝鮮民主主義人民共和国]]から訪中していた黄方秀は、かつて日本にいたことがあり、さらに浅沼の選挙を手伝ったことがあった。黄は事態打開のために「戦闘的な態度」を取るべきだと浅沼らに主張した。草稿を作成した広沢は、「日中両国人民の共同の敵」の「敵」は「課題」などより穏やかな単語も用意した。浅沼はその中から「敵」を選んだという<ref>[[沢木耕太郎]]『テロルの決算』 p161-164</ref>。ただし、[[勝間田清一]]は「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」は中国側の[[{{仮リンク|張奚若]]|zh|张奚若}}の発言であり、浅沼は「まあ、そうですね」などと相づちを打ったのが真相だと主張している<ref>[{{cite|和書|last=鈴木|first=徹三|url=http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/517/517-3.pdf |title=戦後社会運動史資料論――鈴木茂三郎] - |journal=大原社会問題研究所雑誌|issue=517|year=2001|month=12}}鈴木徹三鈴木茂三郎の子</ref>。
 
1960年、西尾末広らが社会党を離党して[[民社党|民主社会党(民社党)]]を結成すると、[[鈴木茂三郎]]委員長は辞任し浅沼が後任の委員長に選ばれた。浅沼は[[安保闘争]]を前面にたって戦い、[[第2次岸内閣改造内閣|岸信介内閣]]を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。また民社党は続く[[第29回衆議院議員総選挙|1960年総選挙]]に、麻生久の子で浅沼も目を掛けていた[[麻生良方]]を浅沼の対立候補として東京1区に立てるといった、全面対決の姿勢を見せた。
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党外でも調整役として手腕を発揮し、右派ながらも[[社共共闘]]を積極的に進めた。[[日本共産党]]関係者・支持者の間でも信頼が厚く、社共両党の関係を良好なものにしていた。
 
[[10月18日]]、[[衆議院]][[本会議]]で[[池田勇人]]首相が喪章をつけて[[追悼演説]]を行った<ref>文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』([[文春新書]]2011年)所収。</ref>。「……私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。……その人を相手に政策の論議を行おうと誓った好敵手の席であります。かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、またある時は大衆の先頭に聞いたのであります。いま、その人はなく、その声も止みました。私は誰に向かって論争を挑めばよいのでありましょうか。……」と死を悼み、「目的のために手段を選ばない風潮を今後絶対に許さない」と宣言した。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、[[首席秘書官]]で後に政治評論家となる[[伊藤昌哉]]が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった。」と池田は述懐している<ref>[[若宮啓文]]『忘れられない国会論戦』[[中公新書]] 1206 [[中央公論社]] 1994年 ISBN 4121012062 C1231)</ref>
 
また、[[犬]]にまつわるエピソードも多く見られ[[ディズニー]][[アニメ]]『[[わんわん物語]]』の[[ラジオドラマ]]版では、[[ブルドッグ]]役の声をあてる為に[[1956年]][[9月6日]]に[[有楽町]]の[[赤坂メディアビル|ラジオ東京ホール]]にある[[録音スタジオ]]で行われた[[アフレコ]]に[[声優]]として出演したことがある。
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* [[石井紘基]] - 同上。
 
== ==
=== 釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
 
==脚注==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1487.html {{青空文庫 家別作品リスト:者|1487|浅沼稲次郎]}}
* [http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/myweb1_108.htm 米帝国主義は日中両国人民の敵である]
* [http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/myweb1_280.htm 最後の「浅沼演説」]
* [httphttps://wwwrnavi.ndl.go.jp/jpkensei/data/kensei_shiryo/kenseientry/asanumainejirou.htmlphp 浅沼稲次郎関係文書(その1)]([[国立国会図書館 憲政資料室 浅沼稲次郎関係文書]])
* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/asanumainejirou2shorui.php 浅沼稲次郎関係文書(その2)]([[国立国会図書館憲政資料室]])
 
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