「マタイによる福音書」の版間の差分

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本書の目的は、[[イエス・キリスト|イエス]]こそが「[[モーセ]]と預言者たちによって」予言され、約束された[[イスラエル]]の救い主([[キリスト]])であると示すことにあり、イエスにおいて[[旧約聖書]]の預言が成就していることを示すことであった。『マタイによる福音書』には旧約聖書(ギリシア語訳・七十人訳)の引用が多く見られるが、それらはイエスの到来を予告したものとして扱われている。旧約からの引用箇所は65箇所にも上り、43箇所は地の文でなく語りの中で引用されている。この福音書の狙いは「私は廃止するためでなく、完成するために来た」という言葉にもっともよく表現されている。
 
『マタイによる福音書』は、イエスはキリスト(救い主)であり、第1章1~171〜17節の系図によれば、ユダヤ民族の父と呼ばれている[[アブラハム]]の末裔であり、また[[イスラエル]]の王の資格を持つ[[ダビデ]]の末裔として示している。このようなイエス理解から、[[ユダヤ人]]キリスト教徒を対象に書かれたと考えられる。
 
また、反ユダヤ的色彩があり、そのユダヤ人観がキリスト教徒、特に中世のキリスト教徒のユダヤ人に対する視点をゆがめてきたという説もある。イエスの多くの言葉が当時のユダヤ人社会で主導的地位を示していた人々への批判となっており、偽善的という批判がそのままユダヤ教理解をゆがめることになったというのである。しかし、実際にはユダヤ教の中でも穏健派というよりは急進派・過激派ともいえるグループがキリスト教へと変容していったとみなすほうが的確である。
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== 特徴 ==
=== 旧約の成就 ===
マタイは、イエスが[[旧約聖書|旧約]]を廃止しに来たのではなく、その目的に導き、成就させに来たことを示そうと努めている(参照:マタイ5:175:17 18)。
 
さらにマタイは、イエスの教えだけでなく、イエスの生涯そのものが旧約の成就であることを強調している。(参照):「このすべてのことが起こったのは、主が[[預言者]]を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ1:221:22 他、数箇所ある)
 
== 執筆言語 ==
マタイ福音書は、すべてがギリシャ語で書かれているわけでなく、マタイ福音書5章22節で、"raca" というアラム語をギリシャ語に翻訳しないで、アラム語の発音をそのままギリシャ語に音写している。(ちなみに、他にも「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」というイエスの言葉も音写である。)新約学者のO.クルマンは、ここから、マタイはアラム語が通じる相手に語っているとしている。<ref>O.クルマン『新約聖書』白水社クセジュ No.415。 p.36</ref>。
 
『マタイ福音』については、元々何語で書かれていたのかが最も議論となる問題で、伝承では最初[[アラム語]]で書かれ、[[ギリシャ語]]へと翻訳されたとされている。しかし、『マタイによる福音書』がアラム語で書かれたなら、[[シリア]]などでは他にもよく読まれた『[[ヘブライ人の福音書]]』などがあったにもかかわらず、『マタイによる福音書』だけがすぐに西方で受け入れられており、また[[ギリシャ語]]の古い版を見ても、翻訳らしいことがわかる部分はほとんど見つけられていない。いまだに[[アラム語]]の『マタイによる福音書』は発見されていない。マタイがユダヤ人を対象として福音書を書いたとはいえ、福音書が書かれたころにはヘレニズム世界に住む[[ユダヤ人]]の多くにとって、もっともなじみ深い言葉は[[ギリシャ語]]であり、特に[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]のユダヤ人共同体は世界最大規模であった。例外が[[エルサレム]]であり、そこではさまざまな文化的背景を持つユダヤ人たちが暮らし、アラム語が共通語となっていたと考えられる。ユダヤ人対象に書くにしろ、あえてアラム語で書く積極的な理由を見つけることは難しい。そう考えると初めからギリシャ語で書かれたというほうがつじつまがあう。
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