「内村鑑三」の版間の差分

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|主な受賞歴=
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{{無教会主義}}
'''内村 鑑三'''(うちむら かんぞう、[[万延]]2年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1861年]][[3月23日]])- [[昭和]]5年([[1930年]])[[3月28日]])は、[[日本]]の[[キリスト教]][[思想家]]・[[文学者]]・[[伝道者]]・[[聖書学者]]。[[福音主義]][[信仰]]と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる[[無教会主義]]を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。
 
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[File:清水法律事務所(内村鑑三居宅跡) - panoramio.jpg|thumb|leftthumb|180px|内村鑑三居宅跡]]
万延2年([[1861年]])、[[高崎藩]]士・[[内村宜之]]とヤソの6男1女の長男として[[江戸]][[小石川]]の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる<ref>「自己を鑑みる」という用法は、『何に』鑑みるのかが欠落しているが、鑑三の父の勘違いによるものであろう。</ref><ref>[[#関根1967|関根(1967)]]、6頁</ref>。
[[慶応]]2年([[1866年]])頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。
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明治6年([[1873年]])に単身で上京して、[[有馬学校]]英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の[[三島弥太郎]]がいる。有馬学校で1年学んだ後、[[東京外国語学校]]の下等第四級に編入した。この時の同級生に、[[末松謙澄]]、[[天野為之]]、[[佐藤昌介]]らがいた。後の首相・[[加藤高明]]は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、[[杉田玄端]]から治療を受けた。一年遅れたことにより、[[新渡戸稲造]]、[[宮部金吾]]と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『[[旧約聖書]]』の聖書物語に触れた。
[[File:Sapporo Agricultural School in 1880 (halftone removed).jpg|thumb|180px|内村鑑三らが第三学年の時の札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎]]
 
=== 札幌農学校時代 ===
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札幌へ旅立つ前に、東京の[[芝 (東京都港区)|芝]]で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、[[岩崎行親]]らと立行社というグループを結成した。
 
[[File:SapporoKanzo AgriculturalUchimura SchoolKingo inMiyabe 1880Inazo (halftone removed)Nitobe.jpg|thumb|180px|left|内村鑑三らが第三学年の時の新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎時代]]
[[File:Kanzo Uchimura Kingo Miyabe Inazo Nitobe.jpg|thumb|180px|left|新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代]]
[[File:Sapporo Dokuritsu Church.jpg|thumb|180px|left|内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会]]
 
内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していた[[ウィリアム・スミス・クラーク]]ら、[[お雇い外国人]]の強い感化力によって第一期生は既に[[キリスト教]]に[[改宗]]していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。内村は[[ヨナタン]]というクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは[[牧師]]の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。
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明治16年([[1883年]])夏に[[安中教会]]を訪問した時に知り合った[[浅田タケ]]と、両親の反対を押し切って明治17年([[1884年]])3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている<ref>[[#関根1967|関根(1967)]]、25頁</ref><ref name="Mr.Kebel'sBlog">{{Cite web |url=http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/114668/111590/4426410?page=1|title=内村鑑三の離婚 |publisher= [[ケベル先生のブログ]] |accessdate= 2013-03-21 }}</ref>。
[[File:Sapporo Dokuritsu Church.jpg|thumb|180px|left|内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会]]
 
=== アメリカ留学時代 ===
浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、11月24日に[[サンフランシスコ]]に到着する。[[拝金主義]]、[[人種差別]]の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]郊外の[[エルウィン]]の養護施設を尋ねた時に、医師である院長の[[I.N.カーリン]]と出会い、そこの[[知的障害児]][[養護学校]]で看護人として勤務することになる。
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=== 新聞記者時代 ===
[[File:Ruth Uchimura.jpg|thumb|right|150px|夭折した娘ルツ子]]
明治30年(1897年)に[[黒岩涙香]]が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。同社発行の新聞『[[萬朝報]]』英文欄主筆となった。一高時代の教え子[[山県五十雄]]らと共に、通算二百数十篇の文章を書いた。この文章は外国人系新聞からマークされ、[[松井広吉]]ら日本人にも愛読された。同年3月16日には、英文欄にて[[足尾銅山鉱毒事件|足尾銅山の鉱毒問題]]を取り上げた。
 
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== 年譜 ==
[[File:Tombstone of Kanzou Uchimura.jpg|thumb|250px|内村鑑三の墓。"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God." と刻まれている。]]
[[File:Ruth Uchimura.jpg|thumb|right|150px|夭折した娘ルツ子]]
* 万延2年(1861年) - 上州高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれる。
* 明治6年(1873年) - 東京の有馬学校入学
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* {{青空文庫著作者|34}}
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