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[[永禄]]年間([[1558年]] - [[1570年]])から三好氏の武将[[篠原自遁]]が守っていた<ref name=jo>『[[日本城郭大系]] 第15巻』pp.180-182</ref>。[[1582年]]([[天正]]10年)の[[長宗我部元親]]による阿波侵攻では、[[十河存保]]方についたものの、[[中富川の戦い]]や[[勝瑞城]]攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの[[織田信長]]が[[本能寺の変]]で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し[[淡路国|淡路]]へ逃走した<ref name=jo/>。
 
[[長宗我部元親]]領有後は腹である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる<ref name=naruto>{{Cite web |date=2005-01 |url=http://www.city.naruto.tokushima.jp/koho/pdf/2005_01/200501_p9.pdf |title=広報なると 木津城跡の遺構発掘 |format=PDF |publisher=[[鳴門市]] |accessdate=2014-08-25}}</ref>。[[1585年]](天正13年)、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]による[[四国攻め]]では、[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた<ref name=jo/>。
 
== 現状 ==