「アット・ザ・ゲイツ」の版間の差分

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==略歴==
[[1990年]]、グロテスク、インフェステイションらのメンバーによりアット・ザ・ゲイツが結成される。メンバーは[[トーマス・リンドバーグ]](Vo)、[[アンダース・ビョーラー]](G)、アルフ・スヴェンソン(G)、[[ヨナス・ビョーラー]](B)、[[エイドリアン・アーランドソン]](Ds)の5人であった。[[1991年]]に[[デモテープ|デモ]][[コンパクト盤|EP]]『Gardens of Grief』をリリース。同デモは、同年中に[[ドロレス・レコード]]より[[アナログレコード]]で再発された。[[1992年]]にもプロモ盤を作成し、[[イギリス]]の[[ピースヴィル・レコード]]と契約を行う。[[ヴァイオリン]]奏者のイェスパー・ヤロルドをセッションに迎え、アルバムのレコーディングを行う。同年[[7月]]に1stアルバム『The Red Inin Thethe Sky Is Ours』をリリース。その後、[[セリオン (バンド)|セリオン]]、[[マイ・ダイイング・ブライド]]らとヨーロッパツアーを行う。また、[[1992年]]の途中から[[1993年]]にかけて、ヨナス・ビョーラーがバンドを離れており、トニー・アンダーソンが[[ベーシスト]]として参加している。この関係からか、1stアルバムの裏ジャケットには、トニー・アンダーソンがベーシストとしてクレジットされている<ref>ただし、ブックレットの方には、ヨナス・ビョーラーがベーシストとしてクレジットされている。</ref>。
 
[[1993年]]、[[4月]]にサンライト・スタジオでとトマス・スコッグスベルグと共にレコーディングを行う(当時サンライト・スタジオで働いていた[[ディスメンバー]]のフレッド・エストビー、[[カーナル・フォージ]]のラーズ・リンデンらがエンジニアとして参加している)。音楽的方向性の違いによりアルフ・スヴェンソン(G)が脱退するがアルバムのレコーディングには参加、後任にマーティン・ラーソンを迎る。[[5月]]に2ndアルバム『With Fear I Kiss Thethe Burning Darkness』をリリース。[[アナシマ]]、[[クレイドル・オブ・フィルス]]らとツアーをヨーロッパツアーを行う。[[1994年]]、[[2月]]にイエテボリの[[スタジオ・フレッドマン]]にてプロデューサーの[[フレドリック・ノルドストローム]]と共にレコーディングを行う。4月にEP『Gardens of Grief 』を限定666枚リリース。[[7月]]に3rdアルバム『Terminal Spirit Disease』をリリース。これは新曲6曲に、ライブ3曲という変則的な構成のアルバムであった。アナシマ、マイ・ダイイング・ブライドらとヨーロッパツアーを行う。
 
[[1995年]]、イギリスの[[イヤーエイク・レコード]]と契約を行い。5月から7月にかけ再びスタジオ・フレッドマンでフレドリック・ノスドストロームプロデュースの元、アルバムのレコーディングを行う。11月に4thアルバム『Slaughter Of The Soul』をリリース。[[アンリージェッド]]とヨーロッパツアーを行い、途中フェスティバル出演では[[テスタメント (バンド)|テスタメント]]、[[クリーター]]らと共演した。[[1996年]]、[[1月]]には[[ディセクション]]らとイギリスツアーを行い、3月には[[モービッド・エンジェル]]、ディセクションとアメリカツアーを行う。4月には[[ナパーム・デス]]、[[フェイス・ダウン]]らとヨーロッパツアーを行い、[[6月]]にはナパーム・デスとアメリカツアーを行う。その後[[スウェーデン]]でフェスティバルに出演後、9月に解散した。解散のきっかけは、ライブ・ツアーの疲れから、アンダース・ビョーラーが脱退の意向を示したことだという<ref>『Slaughter of the Soul』のDVDに収録されたインタビューでの、トーマス・リンドバーグの回答より。</ref>。