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[[ファイル:William Kidd.jpg|right|200px|thumb|ウィリアム・キッド]]
[[ファイル:Captain Kidd hanging.jpg|right|200px|thumb|縛り首になったキッド船長]]
'''ウィリアム・キッド'''({{En|'''William Kidd'''}}、 [[1645年]]?<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/275156/meaning/m0u/ キッド【William Kidd】 とは]2017年2月11日閲覧</ref>/ [[1655年]]ごろ<ref name=d313>デイヴィッド・コーディングリ『図説 海賊大全』p313</ref> - [[1701年]]<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/275156/meaning/m0u/ キッド【William Kidd】 とは]2017年2月11日閲覧</ref>)は、[[スコットランド]]生まれの[[私掠船]]、[[海賊]]船の[[船長]]。'''キャプテン・キッド'''の別名が広く知られている。
 
== 生涯 ==
スコットランドの[[グリーノック]]に[[長老派]]牧師の息子として生まれた<ref>ゴス、(2010)、18</ref><ref name=d313/>。彼は[[ブリガンティン]]船ブレスト・ウィリアム号を指揮して[[西インド諸島]]で私掠行為を行って名をはせていた<ref name=d313/>。[[1691年]]キッドは{{仮リンク|ロバート・カリファド|en|Robert Culliford}}率いる反乱者によって[[アンティグア]]に置き去りにされた<ref name=d313/>。それから彼は、[[ニューヨーク]]に向かい[[セアラ・オート]]と言う美女と結婚した<ref name=d313/>。その後商人になった<ref name=d314>デイヴィッド・コーディングリ『図説海賊大全』p314</ref>。
 
[[1695年]]、[[私掠免許]]を得るための活動をするためロンドンに向かった<ref name=d314/>。キッド自身に海賊たちについての詳しい知識があったため、ベラモント伯に政府の船の指揮官にするようにという提案を出してもらえた<ref name=c138>チャールズ・ジョンソン『海賊列伝(下)』p138~p139</ref>。しかし理由は不明ながら、この提案は受け入れられなかった<ref name=c138/>。これを聞いたベラモント伯はキッドに船長を務めさせるために新しい船を自身の資金を使って建造し、委任状も自身で手に入れた<ref name=c138/>(キッド自身も、アドヴェンチャー・ギャレー号の建造費用6000ポンドの内600ポンドを支払っていた<ref>デイヴィッド・コーディングリ『図説 海賊大全』p315</ref>)。アドヴェンチャー・ギャレー号は、287トンの船体で、34門の[[大砲]]と150人の乗員を持つ船であった<ref>デイヴィッド・コーディングリ『図説 海賊大全』2000年、p316~p317</ref>。キッドは海賊を捕らえていいという権限と、その過程で出会ったフランス船も拿捕していいという権限とを持ち[[1696年]][[5月]]にプリムスを出航した<ref>コーディングリ、(2000)、p314~318</ref><ref>ジョンソン、(2012)、p141</ref>。その後[[マデイラ島]]に行ってワインや必需品を、ボナヴィスタでは塩を、セントヤーゴ島では食糧を積み込んだ<ref name=c142>ジョンソン、(2012)、p142</ref>。そして[[1696年]][[9月]]、海賊たちの巣窟[[マダガスカル]]を目指した<ref>コーディングリ、(2000)、p319</ref>。そして[[1697年]][[2月]]、マダガスカルに到着した<ref name=c142/>。しかし海賊たちは略奪に出ていて島にはいなかったために[[マラバール海岸|マラバー海岸]]に向かい、6月に到着したがここでも成果はなかった<ref name=c142/>。その後、キッドは[[紅海]]の[[ペリム島]]に到着して、海賊行為を行うことを乗組員に伝えた<ref name=c143>ジョンソン、(2012)、p143</ref>。乗組員に反対者はいなかった<ref name=c143/>。キッドはイギリスとオランダの護衛艦に守られた船を発見して、それを襲った<ref name=c144>ジョンソン、(2012)、p144~p145</ref>。しかしキッドの船は護衛艦に勝てず撤退した<ref name=c144/>。その後海賊稼業を続けることにしたキッドは、マラバー海岸に行き小型船を襲ったがこの船は財宝を積んでいなかったためコーヒーと胡椒を略奪した後に船を解放した<ref name=c144/>。
 
キッドはウィリアム・ムアという船員との間で口論となり、鉄で補強された[[バケツ]]でムアを殴りつけて、殺害した<ref name=d320>コーディングリ、(2000)、p320~p321</ref><ref name=g20>ゴス、(2010)、p20</ref>。この事件を機にキッドは本格的に海賊行為を行っていくことになる<ref name=g20/>。
 
[[1698年]][[2月]]、キッドは総額71万ポンドの財宝を積んだ{{仮リンク|ケダー・マーチャント号|en|Quedah Merchant}}(Quedah Merchant)を発見し、略奪した<ref>コーディングリ、(2000)、p320~p321</ref>。キッドは、フランス国旗を揚げて接近した<ref>ジョンソン、(2012)、p147</ref>。
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キッドはアドヴェンチャーギャリー号とケダー・マーチャント号を率いて[[サント・マリー島]]に到達する。この地で彼はかつてキッドの下で副船長として働いていたが、船を盗み海賊として活動している[[ロバート・カリファド]](Robert Culliford)と彼が略奪したモカ号(Mocha Frigate)に出会う<ref name=d321>コーディングリ、(2000)、p321</ref>。カリファドより多数の乗組員がいたキッドは襲撃を決意し、乗員に船を捕らえるように指令を出すが、乗員のほとんどが謀反を起こし、カリファドに合流してしまう<ref name=d321/>。18人の船員しかキッドの元に残らず、彼は国へ出発する<ref>コーディングリ、(2000)、p321~p322</ref>
 
キッドは、[[喜望峰]]を回るための風を5か月間待った。損壊していたアドヴェンチャー・ギャリー号を破棄しケダー・マーチャント号に乗り換えカリブ海に向かった<ref name=d322>コーディングリ、(2000)、p322~323</ref>。西インド諸島の[[アンギラ|アングイラ島]]で自分が「東インドの疫病神」と言われていることを知ったキッドは、ベラモントの手を借りようとした<ref name=d322/><ref>ゴス、(2010)、p21</ref>。彼はベラモントに連絡が取れるまで[[セント・トーマス島|セント・トマス島]]の宿屋に泊まろうとしたが、お尋ね者であることを理由に宿泊を拒否された<ref name=d322/>。[[エスパニョラ島]]の南東部の海岸にある川でケダー・マーチャント号を破棄した<ref name=d322/>。船体が大きすぎて目立ってしまうからだった<ref name=d322/>。その代わり財宝の一郎は[[スループ|スループ船]]に移され、残りはキッドが安全な状況になるまで見張りを立てて置かれた<ref name=d322/>。国王は、喜望峰東部から[[ソコトラ島]]、[[コモリン岬|コーモリン岬]]までの海域で行われた海賊行為に対しては、[[1699年]][[4月]]末までに自首すれはどんな罪であろうとその罪を免除するという布告を出した<ref name=c149>ジョンソン、(2012)、p149~150</ref>。だだし、キッドと{{仮リンク|ヘンリー・エイブリー|en|Henry Every}}だけは例外だった<ref name=c149/>。[[ロング・アイランド]]に到着したキッドは、ベラモントに会うため[[ボストン]]に行った(この時ベラモントは、キッドを誘き寄せるため偽物の歓迎の手紙を書いた)<ref name=d322/>。ボストンに着いたキッドはベラモントに裏切られ逮捕された<ref>コーディングリ、(2000)、p323</ref>。[[1700年]][[4月]]、キッドはイギリスに連行された<ref>コーディングリ、(2000)、p324</ref>
 
=== 裁判 ===
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*デイヴィッド・コーディングリ(編)、増田義郎、竹内和世(訳)『図説 海賊大全』2000年、東洋書林
*チャールズ・ジョンソン(著)、朝比奈一郎(訳)『海賊列伝(下)』2012年、中公文庫
*フィリップ・ゴス(著)、朝比奈一郎(訳)『海賊の世界史(下)』
 
==関連項目==