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{{TVWATCH}}
{{Infobox journalist
| name 氏名 = 筑紫 哲也
| image 画像 = [[ファイル画像:Tetsuya Chikushi.png|180px]]
| caption 画像説明 = [[ホワイトハウス]]のルーズベルトルームで<br />『[[筑紫哲也 NEWS23]]』収録時の筑紫哲也。<br />(1998年10月19日)
|出生名 =
| birth_name =
| birth_date 生年月日 = [[1935年]][[6月23日]]
| birth_place生誕地 = {{JPN}}・[[大分県]][[日田市]]
| death_date 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1935|6|27|2008|11|7}}
| death_place死没地 = {{JPN}}・[[東京都]]
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| education 教育 = [[早稲田大学]][[政治経済学部]]経済学科
| occupation 職業 = [[ジャーナリスト]]<br />[[ニュースキャスター]]
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| family =
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| children 子供 = [[筑紫拓也]]([[長男]])<br />[[筑紫ゆうな]](次女)
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|活動期間 = 1959 - 2008
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| credits 肩書き = [[朝日新聞]]記者 (1959 - 1984)<br />「[[朝日ジャーナル]]」編集長 (1984 - 1987)<br />朝日新聞編集委員(ニューヨーク駐在、1987 - 1989)1989)<br />[[TBSテレビ|TBS]]『[[筑紫哲也 NEWS23]]』メインキャスター (1989 - 2008)<br />[[日本記者クラブ立命館大学]][[客員教授]]賞受賞(2008年)<br />「[[週刊金曜日]]」編集委員 など
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|宗教 =
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[[立命館大学]][[客員教授]]<br />「[[週刊金曜日]]」編集委員 など
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| URL =
}}
'''筑紫 哲也'''(ちくし てつや、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[6月23日]] - [[2008年]]([[平成]]20年)[[11月7日]])は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[ニュースキャスター]]。 
 
[[朝日新聞社]]記者、[[朝日ジャーナル]]編集長、[[TBSテレビ]]『[[筑紫哲也 NEWS23]]』メインキャスター、[[早稲田大学|早稲田大学]]大学院]][[公共経営研究科]]客員教授(専任扱い)、[[立命館大学]]客員教授、市民団体・[[自由の森大学]]「学長」等を歴任。また、[[雑誌]] 『[[週刊金曜日]]』編集委員、『潮賞』(雑誌 『[[潮]]』)「ノンフィクション部門」選考委員も務めていた。
 
== 来歴 ==
=== 生い立ちと朝日新聞社時代 ===
[[1935年]]([[昭和]]10年)、[[大分県]][[日田市]]生まれ。[[静岡県立沼津東高等学校]]および[[東京都立小山台高等学校]]を経て、[[早稲田大学]][[政治経済学部]]経済学科卒業。
 
大学在学中は[[合唱]]団「|グリー]]クラブに所属していた。卒業後は[[朝日新聞社]]に入社、政治部記者、[[琉球]](現在の沖縄)特派員、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]特派員、外報部次長、編集委員などを歴任した。政治部時代には当時[[内閣総理大臣]]の[[三木武夫]]の番記者を務め、[[自由民主党 (日本)|自民党]][[ハト派]]との人脈と親交を広げた。入社同期に[[轡田隆史]]がいる。
 
朝日新聞外報部デスクとして『さて今週は、閑話・徹子と記者クラブ』([[1977年]](昭和52年)11月6日放送)にゲスト出演した後、[[1978年]](昭和53年)4月から[[1982年]](昭和57年)9月まで[[テレビ朝日]]『[[日曜夕刊!こちらデスク]]』のメインキャスターを務めた。同時期、[[朝日新聞|朝日新聞社]]のCMで『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ番組『夕刊タモリ!こちらデス』(現在の『[[タモリ倶楽部]]』の前身)の司会者だった[[タモリ]]と共演した。
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彼の[[ジャーナリスト]]としての社会的な発言には、毀誉褒貶・賛否両論あったが、ニュースキャスターとしての手腕はこの番組で確実となり、以降は『[[ニュースステーション]]』のキャスター・[[久米宏]]と並び民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。[[久米宏]]とは平日夜のニュース番組の[[視聴率]]を激しく争ったが「[[広島東洋カープ]]のファン」という共通点があったため、[[日刊スポーツ]]の企画で[[1991年]](平成3年)の[[西武ライオンズ]]との[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]を仲良く観戦している<ref name="中国2016109">[[中国新聞]] 日刊 2016年10月9日28面『V7 私の鯉心(6) 久米宏さん』</ref>。久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央"、"反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている<ref name="中国2016109"/>。
 
[[1993年]](平成5年)、『筑紫哲也 NEWS23』のキャスターとしての業績に対して、第30回[[ギャラクシー賞]]・テレビ部門個人賞を受賞<ref>{{cite web
|url = http://www.houkon.jp/galaxy/30th.html
|title = 第30回ギャラクシー賞受賞作品
|publisher = [[放送批評懇談会]]
|date =
|accessdate = 2014-11-14
}}</ref>。
 
[[1995年]](平成7年)のいわゆる「[[TBSビデオ問題]]」(TBSの[[ワイドショー]]『[[3時にあいましょう]]』のスタッフが[[オウム真理教]]幹部に[[坂本堤]]への[[インタビュー]]映像を事前に視聴させた事実が発覚。[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]の一因であるとして、TBSへの非難が集中した)では、『筑紫哲也NEWS23』で[[TBSテレビ|TBS]]の対応に疑問を呈し続けた。当時のTBS[[社長]]・[[磯崎洋三]]が過ちを認めた[[1996年]](平成8年)[[3月25日]]の記者会見の後、その日の「多事争論」にて『TBSは今日、死んだに等しいと思います』と発言し、TBSを批判した<ref>{{cite press release
| author = 筑紫哲也
| title = News23 多事争論 3月25日(月)「坂本弁護士事件とTBSの問題」
| publisher = [[NEWS23]]
| date = 1996-03-26
| url = http://210.174.204.116/news23/old/onair/taji/s60325.html
| accessdate = 2010-04-12
}}</ref>。
 
[[1998年]](平成10年)[[11月19日]]には、訪日した[[ビル・クリントン]][[アメリカ大統領]]をTBSの『筑紫哲也NEWS23』に招いて[[筑紫哲也 NEWS23#タウンミーティング|タウンホールミーティング]]風のインタビューと[[ディスカッション]]を行った。
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=== 晩年 ===
[[2007年]](平成19年)[[5月14日]]放送の『NEWS23』で初期の[[肺癌]]であることを告白<ref>{{cite press release
| author = 筑紫哲也
| title = News23 多事争論 5月14日(月)「がんを生きぬく」
| publisher = [[筑紫哲也NEWS23]]
| date = 2007年5月14日
| url = http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/taji/s070514.html
| accessdate = 2007-5-14
}}</ref>、治療に専念するため『NEWS23』への出演を一時休業した。同年[[10月8日]]には休業後初めて番組に復帰。以降はスペシャルアンカーとして数ヶ月おきに番組へ出演。最晩年には出演時にニット帽をかぶるようになった。<!--「筑紫哲也 明日への対話」について詳しい方いませんか?-->
 
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[[2008年]](平成20年)[[11月7日]]午後、肺癌のため東京都内の病院で死去した。享年74(満73歳没)<ref>{{cite news
| url = http://www.asahi.com/obituaries/update/1107/TKY200811070335.html
| title = 筑紫哲也さん死去 NEWS23前キャスター 73歳
| newspaper = asahi.com
| publisher = [[朝日新聞社]]
| date = 2008-11-07
}}</ref>。真裏の報道番組同士のライバル関係にあった[[久米宏]]、[[古舘伊知郎]]らが自らの番組でその死を悼んだ<ref>{{cite news
| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/11/09/01.html
| title = 久米宏氏「後ろに筑紫さんがいたから安心」
| publisher = [[スポーツニッポン]]
| date = 2008-11-09
}}</ref><ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/081108/gnj0811080504016-n1.htm 古舘、TV番組で“先輩”筑紫さん偲ぶ] SANSPO.COM</ref>ほか、追悼特別番組が放送されるなどその死は大きく報じられた。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は無量院釋哲也。[[2008年]](平成20年)[[12月19日]]、東京都内のホテルで別れの会が行われた。
 
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== スタンス・評価 ==
{{Main2|『NEWS23』でのジャーナリスト活動とその賛否については[[|筑紫哲也 NEWS23#評価]]を}}
[[リベラル派]]文化人の代表的存在だが、報道姿勢について賛否が分かれることも多かった。その一方で[[野村秋介]]と親交があり、それを[[阿川佐和子]]に驚かれたことがあるように、保守的姿勢の人物に対しても許容している側面があり<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290402.html 女神(5)阿川佐和子さん ニコニコ顔に負けて、つい…] asahi.com</ref>、これ以外にも筑紫と親交の深かった保守系の政治家やジャーナリストも多く、筑紫の葬儀には保守派の大物議員や有名ジャーナリストの参列も見られた。元内閣総理大臣[[小泉純一郎]]はイラク戦争でアメリカを支持していたので対極の立場にあったが、[[上杉隆]]によれば、プライベートでは首相官邸に小泉を訪ね、[[オペラ]]談義に花を咲かせることもあったのだとう<ref name ="diamond-uesugi-2008-1113">「[http://diamond.jp/articles/-/7182?page=3 筑紫哲也氏は本当に賞賛すべきジャーナリストだったのか]」『週刊上杉隆』ダイヤモンド社HP 2008年11月13日</ref>。
 
[[リベラル派]]文化人の代表的存在だが、報道姿勢について賛否が分かれることも多かった。その一方で[[野村秋介]]と親交があり、それを[[阿川佐和子]]に驚かれたことがあるように、保守的姿勢の人物に対しても許容している側面があり<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290402.html 女神(5)阿川佐和子さん ニコニコ顔に負けて、つい…] asahi.com</ref>、これ以外にも筑紫と親交の深かった保守系の政治家やジャーナリストも多く、筑紫の葬儀には保守派の大物議員や有名ジャーナリストの参列も見られた。元内閣総理大臣[[小泉純一郎]]はイラク戦争でアメリカを支持していたので対極の立場にあったが、[[上杉隆]]によれば、プライベートでは首相官邸に小泉を訪ね、[[オペラ]]談義に花を咲かせることもあったのだと言う<ref name ="diamond-uesugi-2008-1113">「[http://diamond.jp/articles/-/7182?page=3 筑紫哲也氏は本当に賞賛すべきジャーナリストだったのか]」『週刊上杉隆』ダイヤモンド社HP 2008年11月13日</ref>。
 
=== 肯定的評価 ===
* [[鳥越俊太郎]]、[[堺屋太一]]、[[田原総一朗]]、[[立花隆]]らはオピニオンリーダー、ジャーナリストとしての筑紫を高く評価している。
* [[大田昌秀]](元沖縄県[[知事]])は朝日新聞記者の時代から[[沖縄県|沖縄]]問題を積極的に報道し続け、『NEWS23』の番組内でも何度も[[在日米軍#在日米軍の抱える課題|在日米軍基地問題]]を取り上げた筑紫の死に際して「沖縄にとってかけがえのない恩人を失い、大きなショックを受けている」とコメントを発表した。
* 『NEWS23』でサブキャスターを務めた[[草野満代]]は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と評している<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290406.html 女神(2)草野満代さん オンエア3秒前まで雑談していた] asahi.com</ref>。
* [[井上陽水]]は「日曜夕刊!こちらデスク」で自身の楽曲「傘がない」の歌詞の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」を取り上げた回を視聴し「ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と感じたことを話している。それもあって同番組の最終回に出演し、「傘がない」を含んだ3曲を歌唱した。その後も井上は「NEWS23」に楽曲提供をしたり、筑紫と[[麻雀]]をするなど、親交を深めていった。なお、筑紫と井上には政治や家庭などの立ち入った話はしないという暗黙の了解があった。井上は「筑紫さんの功績のひとつは、ユーモアの大切さを意識されていたことだと思います。この真面目な国では、深刻そうに語ることが求められて、ちょっとした笑いや諧謔(がいぎゃく)も『不真面目だ』とか言って、許されないところがありますから。ユーモアを口にしたり受け止めたりするには、余裕がないとできません。番組では、『なかなか面白い冗談を言うな』という感じではかならずしもなかったのですが、ユーモアがもつ可能性に注目していた、という意味で特別だったと思います」「政治家なんかにしてもね、筑紫さんならということで出演した方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。鷹揚で優しいからなのか、どんなものでもまずは肯定しようとするスタンスがあったようにも思います」「筑紫さんは『観察者』だったと思います。へたに才能があると『演者』になろうとして、観察者にはなれない。自分が演じるのではなく、演じている誰かを見たり、世の中に紹介したりするという意味で、観察者のプロだったといえるのかもしれません」と評している<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290297.html 井上陽水さん(1) 筑紫さんの一言から生まれた「最後のニュース」]asahi.com</ref>。
 
=== 否定的評価 ===
* [[保守派]]論壇からは筑紫が出演した番組の報道姿勢と合わせて[[特攻隊]]や<ref>{{Cite journal | 和書
| url =
| title = 特攻隊を「自爆テロリスト」呼ばわりした「筑紫哲也」
| journal = [[週刊新潮]]
| issue = 2004年10月14日号
| publisher = [[新潮社]]
| pages = 145-146
| date =
| accessdate =
}}</ref>[[北朝鮮による日本人拉致問題]]に関する言動などで<ref>[[西村幸祐]]「拉致家族と『朝日新聞』&筑紫哲也氏の深すぎる溝」(『反日の構造』 ISBN 4569639968 所収)など。</ref>強い批判を受けることが多かった。
* [[吉本隆明]]は、[[テレビキャスター]]の筑紫や[[久米宏]]は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのかあるいは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している<ref>吉本隆明{{Cite book|和書
|year = 1999
|month = 8
|title = 私の「戦争論」
|publisher = ぶんか社
|isbn = 978-4821106844
|ref = 吉本1999a
}}75頁</ref>。
* [[上杉隆]]等は筑紫の打ち立てた功績は揺るぎないものであるとしながらも、ジャーナリストの頂点まで上り詰めた晩年の筑紫に関しては、議論で追い詰められても反論しようとしなかったり、思想信条による議論よりも友情を優先するようになっていたことに対して批判的にとらえている<ref name ="diamond-uesugi-2008-1113" />。
* [[田中康夫]]とは『朝日ジャーナル』時代に「[[若者たちの神々]]」最終回で対談し、これがきっかけとなり「ファディッシュ考現学」の連載を依頼した。筑紫の「現場主義」に田中は影響を受けたものの、その後は距離が開くようになり特に田中が厳しい評価を下していた[[細川護熙]]内閣に対して、筑紫が無批判であったことに関して「筑紫哲也朽ちたり」と評した。その後筑紫からの取材に関しての直接の返答はなく<ref>田中康夫「ゲンチャリにまたがって」『[[神戸震災日記]]』所収、[[新潮社]]、文庫版181ページ ISBN 978-4101434087</ref>、「どう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。」と著書内で記すのみであった<ref>筑紫哲也『ニュースキャスター』、集英社新書版200-202ページ ISBN 978-4087201451</ref>。その後田中は何度か筑紫と対面する機会があったことが日記から分かるものの、筑紫が亡くなった前後の「ペログリ日記」にも筑紫死去に関しての言及はなかった<ref>[http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/number00007451.php 筑紫死亡前後のペログリ日記]</ref>。一方で筑紫は『NEWS23』内などでその後も田中を応援し続けていたことや、2人に引き続き親交が存在したことを記す人物もいる<ref>[http://www.pot.co.jp/oikenparis/20091001_162903493914429.html 及川健二のパリ修行日記 2009年10月1日]</ref>。
*元首相の[[森喜朗]]は、月刊誌『Will』にて自らの内閣がマスコミに叩かれた背景として、自身の所属していた福田派の敵対派閥と懇意にしている官邸記者達が多かったことを一因に挙げ、続けて筑紫がある結婚式で「今日は、森前総理も見えていますが、'''森政権時代、我々も『森を潰せ』という戦略で少しやりすぎだったと思っています。'''一国の総理と[[マスメディア|メディア]]の間には、ある程度の緊張感が必要で、ある程度の批判はする。しかし、森さんについてはやりすぎたという反省がある」と述べ、森は「何をいまさら」という気分だったと述べている<ref>森喜朗(聞き手[[大下英治]])「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2007年9月P51-52</ref>。
*筑紫の「沖縄=戦争と基地の悲劇の島」という沖縄観は[[ステレオタイプ]]という批判がある。[[日本経済新聞社]]元那覇支局長[[大久保潤]]と[[篠原章]]の共著『沖縄の不都合な真実』([[新潮新書]]、[[2015年]]、142-143p)「第6章本土がつくったオキナワイメージ」では、[[琉球史]]研究の第一人者で[[副知事]]だった[[高良倉吉]]が、「いつのまにか、沖縄人は[[大江健三郎]]と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」と発言して、筑紫の沖縄観が沖縄県内で定着した結果、[[戦争]]も[[基地]]も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻み、「日本はなんとかしろ」という[[依存]]体質や[[陳情]]文化が一般人にも蔓延したことを解説したこと、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後60年の取材中に地元の複数人から聞いたことが触れられている。沖縄に[[家系]]を持つ[[与那原恵]]は、『迷惑な沖縄愛』という小論を[[別冊宝島Real]]『筑紫哲也「妄言」の研究』に寄稿し、News23でも何度も特集された95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会は自発的に集まった人が多数を占めたが、沖縄人に強く訴えかけた大きな理由は、被害者が「[[少女]]」』だったこと、沖縄のこの種の集会は、[[中学生]]や[[高校生]]の少女が[[作文]]や[[詩]]を読み上げるが、この集会でも[[普天間高校]]の[[女子高生]]が作文を読み、彼女は数年間にわたってNews23に取材されることになったが、筑紫に仮託された「沖縄の少女」というイメージに縛られるのはいやだろうな、と述べている。また、筑紫が沖縄を愛するのは、自分は無知な少年だったから軍国少年に染め上げられてしまったのだという戦争を止められなかった大人への恨みを重ねることができるのは、沖縄を象徴する「少女」であり、[[無垢]]で清らかな自分と日本と米国の[[大国]]の論理で振り回されてしまう被害者としての沖縄という感覚を共有できると思っているからだが、[[沖縄戦]]の実相は複雑であり、また沖縄は複雑な感情や打算がうずまく島でもあり、人間の暮らしとはそういうものであり、沖縄ではかつての左翼的言説に人々がなびかなくなっており、左翼が沖縄に仮託して、自分たちの言いたいことを言っているに過ぎないことに気づいてしまったこと、そして、この先も沖縄に関心を持ち報道していくなら、沖縄の現実や複雑な思いや変化を正確に見て、筑紫が沖縄人に好かれていないという事実も直視すべき、と述べている。
121 ⟶ 140行目:
===自己のスタンス===
*[[田勢康弘]]によると、筑紫は「少数派であること、批判されることを恐れずに、多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由な風気を保つこと」を自身の報道姿勢としていた。2008年、筑紫が病床から『NEWS23』スタッフへ向けて送った手紙にこの考えが表されている<ref>[http://www.taji-so.com/message.html WEB多事争論 - 筑紫哲也メッセージ]</ref>。
 
{{quotation|
(以下、全文)
137 ⟶ 155行目:
2008年夏 筑紫哲也
}}
 
*[[田原総一朗]]から「[[右翼]]から諸悪の根源だとこてんぱんにいわれてますね」と冷やかされた際に「それを名誉に思わなければいけません」と答えるなど、自己のスタンスを貫いた。
 
144 ⟶ 161行目:
 
NPO活動中の[[辻元清美]]に政界入りを勧めたことでも知られる<ref>{{cite news
| url = http://www.asahi.com/obituaries/update/1107/TKY200811070401.html
| title = 『多事争論』貫き、戦後日本の姿追う 筑紫哲也さん死去
| newspaper = asahi.com
| publisher = [[朝日新聞社]]
| date = 2008-11-08
}}:辻元清美が自宅を訪れた際に、開口一番で「やれ」(出馬しろという意味)と言い切られた。「泥船だからこそ乗れ。市民の政党に変えろ」。その後、[[ジャーナリスト]]の領分を逸脱しているとの批判もあったが、「おれには政治家辻元清美の製造元責任がある」と言い続けた。 </ref>。彼女の[[政治団体]]に夫人名義で寄付を行っていた(平成13年9月14日付官報・号外196)。辻元議員の秘書給与流用問題の際には、夫人名義で献金している事実を公表せずに辻元を擁護するかのような発言を番組内で繰り広げたため、後に辻元本人と共に批判の的となった。
 
== 縁戚 ==
159 ⟶ 176行目:
== 人物 ==
=== ヘビースモーカー ===
[[ハイライト (たばこ)|ハイライト]]と[[マールボロ (たばこ)|マルボロの赤]]を1日3箱吸っていた[[ヘビースモーカー]]だった。肺癌になって[[禁煙]]した後も「一服できないと面白くない」「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分、深い。([[タバコ|たばこ]]の[[喫煙]]は)[[人類]]が発明した偉大な[[文化]]であり、たばこの代わりはありませんよ。これを知らずに[[人生]]を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」「癌の原因は[[ストレス (生体)|ストレス]]で、たばこはきっかけにすぎない」と語った<ref>{{cite news
| url = http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20071127/
| title = 特集ワイド:がんと闘う筑紫哲也さんに聞く
| newspaper = 毎日jp
| publisher = 毎日新聞
|date date= 2007-11-27
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20071129202011/http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20071127/
| archivedate = 2007-11-29
| accessdate = 2015-03-09
}}</ref>。
 
== 出演 ==
『NEWS23』以後、TBSと専属契約を結んでおり、基本的にテレビ出演はTBS系列の放送局に絞っていた。ただし、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]』にVTR出演したり、年に1回[[テレビ朝日]]の特番にゲスト出演していた。
 
=== テレビ ===<!--
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
* [[日曜夕刊!こちらデスク]](テレビ朝日) - パーソナリティ
* [[ザ・権力!]](テレビ朝日)
* [[TVスクープ]](テレビ朝日)
* [[朝まで生テレビ!]](テレビ朝日) - 第2回の討論司会
* [[39時間テレビ|元旦まで感動生放送!史上最大39時間テレビ]] - 総合司会を担当。[[1992年]]12月30日から[[1993年]]1月1日まで。
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](フジテレビ) - [[テレフォンショッキング]]ゲスト。[[1983年]][[4月30日]]放送。
* [[NEWS23|筑紫哲也 NEWS23→NEWS23]]([[TBSテレビ|TBS]]) - メインキャスター、次代の[[後藤謙次]]就任以降はスペシャルアンカー(特別キャスター)として不定期出演
* [[クイズ地球まるかじり]]([[テレビ東京]])
 
=== ラジオ ===
* 筑紫哲也のニュース・ジョッキー([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])
* [[荒川強啓 デイ・キャッチ!]] (TBSラジオ) - ゲスト
 
=== 映画 ===
* [[霧の子午線]](1996年、[[東映]]) - 宮本 役
 
== 著書 ==
* 『筑紫哲也の 乱世を生きよ!―大変な時代を生きるヒント』([[日本経済新聞社]])ISBN 4532162424
* 『筑紫哲也の この「くに」のゆくえ』(日本経済新聞社)ISBN 4532161924
* 『沖縄がすべて』([[照屋林助]]との共著。[[河出書房新社]])ISBN 4309011721
* 『筑紫哲也の世世世(ゆーゆーゆー) パート3』(沖縄タイムズ社)ISBN 4871271382
* 『日本23時―今ここにある危機』(小沢書店)ISBN 4755103428
* 『マイ・アメリカン・ノート ポトマックの両岸』(朝日新聞社)ISBN 4022602678
* 『メディアの海を漂流して』(朝日文庫)ISBN 4022603402
* 『若者たちの神々』1〜4(朝日新聞社) - [[1984年]]から[[1985年]]の若者たちの“神々(20-40代)”50人との対談集。
* 『若者たちの大神』(朝日新聞社) - [[1986年]]から[[1987年]]の若者たちの“大神(50代以上)”22人との対談集。
* 『新人類図鑑』1・2(朝日文庫) [[1986年]]刊 - 対談時10-20代の若者34人との対談集。
* 『元気印の女たち』(すずさわ書房) [[1987年]]刊 - 39人の活躍する女性たちとの対談集。
 
== 筑紫を批判する文献 ==
* [[別冊宝島Real]]編集部『筑紫哲也「妄言」の研究-「NEWS23」、その印象操作&偏向報道の作られ方』 ISBN 4796638482
* [[水間政憲]]『ニュースキャスター筑紫哲也を斬る‐このままテレビの偏向報道を許していいのか もはや中国、北朝鮮の代弁者か』 ISBN 481740549X
* [[三輪和雄 (社会運動家)|三輪和雄]]『偏なテレビの直し方―日本をダメにした久米宏と筑紫哲也』 ISBN 4793801455
* [[中宮崇]]『天晴れ! 筑紫哲也NEWS23』 ISBN 4166604945
 
== 関連項目・人物 ==
* [[筑紫哲也 NEWS23]]
* [[忌野清志郎]]
* [[和田アキ子]] - 生前親交が深く、筑紫のことを『てっちゃん』という愛称で呼んでいた。
* [[野村秋介]] - 思想的には正反対だが友人として交流があった。
*[[久米宏]] - 「筑紫哲也 NEWS23」のライバル番組「ニュースステーション」のメインキャスター。平日最終版のニュースの概念を大変革させた人物。
 
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== 外部リンク ==
* [http://www.taji-so.com/index.php WEB多事争論](筑紫哲也 日本記者クラブ賞受賞記念サイト)
* [http://www.burat.jp/public/shijyu/index.html 筑紫哲也「始終至智への旅」](日刊ブログ新聞ぶらっと! 2007.11.19 - 2008.07.14)
 
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