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== 生涯==
 戴宗は江州で牢役人の頭をしており子分の李逵とともに下役人や囚人に畏怖されていた。またその神行法の能力を見込まれ[[宰相]][[蔡京]]の息子である知事に[[飛脚]]としても重宝されていた。
 
 ある日有名な好漢で旧友[[呉用]]の手紙を預かっていた流人[[宋江]]と意気投合するが、彼は悪人に謀叛をでっち上げられ牢へぶち込まれてしまう。戴宗は宋江が無実だと知っていたが知事から正式な判決をたずねる手紙を都へを届けるよう言い付けられてしまう。途中、偶然梁山泊へ辿り着いた戴宗はこの事を首領の[[晁蓋]]と軍師となっていた呉用に相談した。結果呉用の策により「宋江を都に護送せよ」という内容の手紙を蔡京の筆跡を真似て作成し、江州へ戻った戴宗はこれを知事に届けた。知事はこれを真に受けあとは梁山泊の近くに来た時奪い返すだけだったが、知事の取り巻きでこの騒動の黒幕[[黄文柄]]が、息子相手に不自然な敬称を使われていると贋物であることを見抜き戴宗も捕まって宋江ともども死刑宣告を受けてしまった。しかし処刑の当日駆けつけた梁山泊と李逵の活躍で救出されそのまま梁山泊の一員となった。
 
 梁山泊では神行法の能力を生かして情報収集、伝令、諜報、工作、送迎、捕虜救出、行方不明者や人材の捜索などで八面六臂の大活躍。彼がスカウトした人材は[[楊林]][[裴宣]][[鄧飛]][[孟康]]と有能な人材が多く、間接的に[[石秀]][[楊雄]][[時遷]]らも梁山泊へと導いた。[[方臘]]討伐後、朝廷から武節将軍の称号とエン州の司令官の地位を与えられるが、辞退して[[泰山]]で出家、数ヵ月後に病でもないのに死期を悟り、別れの宴の最中笑いながら大往生した。死後も夢の中の[[徽宗]]を梁山泊へ導く役を務めている。ちなみに[[水滸後伝]]では生存しており以前と同様に活躍する。
 
==関連項目==