「小野蕪子」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Sube (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
7行目:
 
俳句は[[高浜虚子]]、[[村上鬼城]]、[[原石鼎]]らの指導を受けたという。[[1918年]]「草汁」創刊。[[1927年]]「虎杖」選者となり[[1929年]]「[[鶏頭陣]]」と改題、主宰。「健康なる俳句」を唱えた。
[[第二次世界大戦]]中は、[[日本俳句作家協会]]常務理事を務めたが、[[1943年]]に54歳で死去した。([[川名大]]『現代俳句大事典』[[三省堂]]など)
 
[[第二次世界大戦]]中は、[[日本俳句作家協会]]常務理事を務めたが、一方で[[新興俳句運動]]・[[プロレタリア俳句運動]]などに対する[[新興俳句弾圧事件]]([[京大俳句事件]])の黒幕、あるいは特高警察への密告者とされる。戦後になって[[水原秋櫻子]]、[[中村草田男]]など多くの俳人が小野から「特高のブラックリストを見た」などと恫喝されていたことが明らかになった<ref>[[村山古郷]]『石田波郷伝』角川書店</ref><ref>[[山本健吉]]『日本文学小辞典』新潮社</ref>。小野は自分が俳壇の主導権をとろうとして、草田男に「自分が逮捕状を預かっているから、きみはおとなしくするがよい」と発言した。陶芸・古美術評論家としても知られ『陶芸全集』を刊行した。[[1943年腎臓炎を悪化させて尿毒症を併発し]]に54歳で死去した。享年56<ref>[[川名大]]『現代俳句大事典』[[三省堂]]など</ref>
 
== 出典 ==