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[[1559年]](永禄2年)、[[上杉謙信]]が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順した。[[1561年]](永禄4年)の上杉謙信による[[小田原城]]攻めには、当時の城主の[[成田長泰]]も参加している([[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]])。しかし、[[鶴岡八幡宮]]での[[関東管領]]就任式後に離反。[[1574年]](天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが、持ちこたえている。
 
[[1590年]](天正18年)、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐|関東平定]]の際、城主・[[成田氏長]]は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・[[成田泰季]]を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった([[忍城の戦い]])<ref>{{Cite book|和書|author=埼玉県 編|title=新編埼玉県史 通史編 2 中世|publisher=埼玉県|year=1988|page=716}}</ref>。[[豊臣秀吉|豊臣方]]の忍城攻めの総大将は[[石田三成]]で、[[大谷吉継]]、[[長束正家]]、[[真田昌幸]]、[[真田信繁|信繁]]父子らも加わった<ref>{{cite web|url=http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/isidadutumi.html |title=石田堤 |publisher=行田市教育委員会 |date=2011-10-31 |accessdate=2012-04-20 }}</ref>。三成は、本陣を忍城を一望する近くの[[丸墓山古墳]]([[埼玉古墳群]])に置き、近くを流れる[[利根川]]を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ[[石田堤]]を建設した<ref>ただし、当時の書状の中で三成は忍城水攻めを批判しており、またこの時点では一介の奉行でしかなかった三成の身分からしても、独断でこれだけの規模の水攻めを行えたかは疑問である。また、包囲に加わった[[浅野長政]]にも秀吉から水攻めを続行するようにとの命令が届き、士気が下がる事この上なかった、と浅野家文書に記されている。</ref>。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった<ref name="meisyo">{{cite web|url=http://www.city.gyoda.lg.jp/15/04/12/meisyo/osizyou/rekisi.html |title=忍城に関する歴史 |publisher=行田市 |date=2011-05-11 |accessdate=2012-04-20 }}</ref>。このことが、'''忍の浮き城'''という別名の由来となった。
 
=== 江戸時代 ===