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== 艦歴 ==
[[1924年]](大正13年)11月26日、[[呉海軍工廠]]にて起工<ref>[[#第2233号艦艇建造工程表交換の件]]p.2</ref>。当初、進水は[[1926年]](大正15年)10月中旬を予定していた<ref>[[#軍艦那智工事予定概括表の件]]p.10</ref>。[[1927年]](昭和2年)6月15日、[[梨本宮守正王]]列席のもと進水<ref>[[#軍艦那智命名式次第書の件]]p.2、[[#守正殿下御行勤御予定の件]]p.8</ref>。[[1928年]](昭和3年)11月26日竣工<ref>[[#軍艦那智工事予定概括変更の件]]p.19『呉鎮守府司令長官→海軍大臣(三.一一.二六)/那智竣工 今二十六日午前十時三十分授受ヲ了ス。』</ref>。起工は妙高より1ヶ月遅れたが、竣工は8ヶ月早まった事になる<ref>[[#ポケット海軍年鑑:日英米仏伊独軍艦集.1937,1940年版]]p.31</ref>。[[佐世保鎮守府]]所属<ref>[[#艦艇特務艦艇籍一覧表]]p.1</ref>。
 
同年12月4日、横浜沖での御大礼特別観艦式に参加する<ref>[[#大礼参列艦船並に航空機]]p.1</ref>。那智は最新鋭1万トン級巡洋艦として世界に紹介された<ref>[[#御親閲当日式場の光景]]pp.1-2『(前略)第四列には世界最新の航空母艦たる加賀、第一航空戦隊旗艦赤城、同航空母艦鳳翔続いて最新式一万頓級巡洋艦'''那智'''其他第五戦隊旗艦衣笠以下巡洋艦八隻ヲ列シ(以下略)』</ref>。那智の栄誉は続いた。[[1929年]](昭和4年)5月下旬~6月上旬、東京(横須賀)、八丈島、大島、和歌山、大阪、神戸、東京(横須賀)を[[昭和天皇]]が行幸する事になり<ref>[[#行幸に関する件]]pp.1-2</ref>、その御召艦として那智と戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]が指定される<ref>[[#行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)]]pp.1-2</ref>。当時の那智には高等官27名、判任官159名、兵566名、計752名が乗艦していた<ref>[[#行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)]]p.10</ref>。5月28日午前10時、横須賀軍港にて昭和天皇が那智に乗艦し、午後6時に[[八丈島]]にて戦艦長門に移乗した<ref>[[#行幸に関する件]]p.3</ref>。以後、6月8日の神戸出港まで那智は御召艦長門の供奉艦として行動を共にした<ref>[[#八丈島~大阪行幸関係2(1)]]pp.15-17</ref>。
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[[1943年]](昭和18年)3月7日から13日、[[アッツ島]]への輸送作戦に参加。22日、2度目の輸送作戦で[[幌筵島]]を出撃。27日には重巡[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、軽巡[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]、第6駆逐隊([[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]])、第21駆逐隊([[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])と共に'''アッツ島沖海戦'''に参加し、米重巡洋艦[[ソルトレイクシティ (重巡洋艦)|ソルトレイクシティ]] (''USS Salt Lake City, CA-25'') 、軽巡[[リッチモンド (軽巡洋艦)|リッチモンド]]、駆逐艦4隻({{仮リンク|ベイリー (DD-492)|en|USS Bailey (DD-492)|label=ベイリー}}、{{仮リンク|コグラン (DD-606)|en|USS Coghlan (DD-606)|label=コグラン}}、[[モナハン (DD-354)|モナハン]] 、[[デイル (DD-353)|デイル]])と交戦する。だが、ソルトレイクシティの攻撃を受け小破(戦死11名、負傷21名)、米艦隊の撃破にも失敗した。被弾により主砲射撃盤が故障したため各砲塔の照準器による各個射撃となったが、日本海軍は砲側照準による射撃訓練を実施しておらず、遠距離砲撃の命中率は更に悪くなったという。海戦後、第五艦隊長官[[細萱戊子郎]]中将は更迭された。本海戦の結果は[[アッツ島の戦い|アッツ島の玉砕]]の遠因となり、さらに[[キスカ島撤退作戦]]に発展した。
 
ところが9月6日20時56分ごろ、大湊から幌筵島に向かっていた那智に向けてアメリカの潜水艦[[ハリバット (潜水艦)|ハリバット]] (''USS Halibut, SS-232'') が魚雷3本を発射し、うち2本が那智の後部煙突直下と艦尾に命中した。しかしこの魚雷は2本とも不発に終わり、へこみと若干の浸水が生じたこと以外は何もなかった。
 
[[1944年]](昭和19年)6月上旬、[[マリアナ沖海戦]]で日本海軍は大敗。[[サイパンの戦い]]はアメリカ軍の勝利([[マリアナ諸島]]の占領)という形で終わりつつあった。そこで[[神重徳]]連合艦隊参謀は戦艦[[山城 (戦艦)|山城]]、巡洋艦'''那智'''、足柄、[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曽]]、阿武隈等の第五艦隊[[サイパン島]]突入作戦を発案、アメリカ軍に対し陸上砲撃をおこなう計画を提案した。第五艦隊は内地に戻り出撃準備を行うが、作戦は実施されなかった。
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=== 沈没 ===
レイテ沖海戦の敗北後、第五艦隊所属艦はマニラを拠点に敵制空権下での輸送作戦([[多号作戦]])に従事することになる。[[マニラ湾]]には10月23日の米潜水艦の雷撃で大破していた重巡[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]](第十六戦隊)も停泊しており<ref>[[#S1907十六戦隊日誌(2)]]p.25『23日(天候略)青葉「マニラ」湾外ニ於テ対潜水艦戦斗ニ依リ被雷1本第十六戦隊「マニラ」着|鬼怒ハ「マニラ」湾内迄青葉ヲ曳航セリ』</ref>、28日には熊野と駆逐艦[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]も入湾した<ref name="巡洋艦戦記191">[[#巡洋艦戦記]]191-196頁『満身創痍の北帰行』</ref><ref>[[#S1905熊野日誌(4)]]p.39『10.28|0730|本→大臣総長呉鎮(略)「熊野沖波「マニラ」着」』</ref>。
10月29日、マニラはアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け那智、熊野、青葉も目標となってしまった<ref name="巡洋艦戦記191"/>。那智の飛行甲板に小型爆弾が命中<ref>[[#S1905熊野日誌(4)]]p.40『10月29日|1540頃|F6F SB2C約40機発見約半数ハ「キャビテ」在泊艦船(本那智青葉)攻撃 那智飛行甲板爆弾命中火災F6F×6本艦ヘ急爆スルモ2機ヲ激津(確実)他撃退被害ナシ魚雷1本投棄ス』</ref>。魚雷2本が誘爆し、那智に損傷を与えた<ref>[[#那智武蔵日誌(捷号)]]p.10『10.29|飛行甲板(破孔3)/発射甲板(破孔1)/飛行科倉庫3.飛行科軽質油庫1(全壊)/水雷科倉庫3.被服庫.後部見張所(全壊)/後部機銃員待機所.後部電信室.飛行科倉庫1(焼失)/後部電信室.内務科倉庫3(小破)|50瓩程度爆弾ノ直撃及魚雷2本誘爆|現状ノ儘』</ref>。マニラの状況を受けて熊野は台湾への退避準備をはじめた<ref name="巡洋艦戦記191"/><ref>[[#S1905熊野日誌(4)]]p.40『10月29日|1645|敵機撃退空襲状況ニ鑑ミ高雄回航ヲ決意急速回航準備作業開始』</ref>。
 
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== エピソード ==
*[[経済学者]]で[[東宮]]御教育常時参与、[[慶應義塾]]塾長を務めた[[小泉信三]]の長男である[[小泉信吉]][[主計中尉]]として那智に乗船していた。彼はその後八海山丸に移り、[[1942年]](昭和17年)[[10月22日]]に戦死している。
 
== 兵装  ==