「太平洋戦争 (1879年-1884年)」の版間の差分

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そして上述したように、メルガレホの追放後財政難であったボリビアと、[[グアノ]](鳥糞石)の枯渇と価格暴落に直面していたペルーは硝石採掘に注目。1873年にペルー・ボリビア両国は対チリ硝石地帯防衛のための秘密同盟を結んだ({{仮リンク|相互防衛条約 (ペルー=ボリビア)|es|Tratado de Alianza Defensiva (Perú-Bolivia)|en|Treaty of Mutual Defense (Peru–Bolivia)}})。1874年にボリビアとチリの間でアントファガスタ県においては、ボリビアがこれ以上チリ・イギリス系企業に対して輸出税率を上げないことを決めた条約が結ばれた。[[1875年]]にはペルーがタラパカのチリ系企業を有償接収した。
 
[[1878年]]12月、秘密同盟を後ろ盾にしたボリビアの[[イラリオン・ダサ]]大統領はチリ系企業に輸出税を課税した。チリがこれを1874年協定違反だとして拒否すると、ボリビアは硝石を禁輸し、チリ企業を接収した。[[1879年]]2月、硝石企業の保護のため、チリが5000人の兵力を派遣して[[アントファガスタ]]を軍事的に占領し、ボリビアの太平洋地域を制圧した。ボリビアのダサ大統領はペルーに援軍を要請しようとしたため、4月5日にチリはペルー・ボリビア両国間の秘密条約破棄を迫って両国に[[宣戦布告]]した。
 
== 経過 ==
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[[陸軍]]兵力ではボリビア・ペルー側に有利であったが、海岸線の長いチリではイギリスの指導で[[海軍]]整備をしているのに対し、[[ボリビア海軍]]は長く続いた混乱のため未整備で、[[ペルー海軍]]のみで[[チリ海軍]]と戦うこととなった。
 
チリは2隻の艦隊を[[バルパライソ]]からペルー沖へ派遣し、[[タラパカ州]][[イキケ]]を海上封鎖する。5月にはペルー海軍の集結していたカヤオの奇襲を試みるが、カヤオのペルー艦隊(ミゲル・グラウ提督 [[w:en:Miguel Grau|Miguel Grau]])は[[アリカ県|アリカ州]]へ向かう兵員輸送の護衛任務で出向しており、戦闘は回避される。2隻のペルー艦隊は輸送任務を終えるとイキケの封鎖を破るために南下し、[[5月21日]]には湾口で[[イキケの海戦]] (Combate Naval de Iquique) が行われる。海戦はペルー側の[[装甲艦]]「[[ワスカル (装甲艦)|ワスカル]]」による[[衝角]]攻撃でチリ艦1隻を撃沈するが、ペルー側も主力艦1隻を座礁で失う結果となる。この結果、[[制海権]]はチリ側に有利となり、ペルー海軍の行動はグラウ提督座の「ワスカル」による輸送船への砲撃や港湾施設襲撃などの[[ゲリラ戦]]に終始する。
 
10月8日、アントワァガスタ沖で行われた[[アンガモスの海戦]]でグラウ提督らが戦死し、「ワスカル」は拿捕、制海権は完全にチリ側に握られる。