「乃木静子」の版間の差分
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[[安政]]6年([[1859年]])11月6日、[[薩摩藩|鹿児島]][[藩医]]・[[湯地定之]]と[[湯地貞子|貞子]]夫妻の4女(7人[[兄弟姉妹]]の末っ子)として[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在塩屋村(現在の[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[甲突町]])に出生。[[幼名]]は'''お七'''、または'''お志知'''。
[[明治]]5年([[1872年]])[[12月2日]]、[[数え年|数え]]14歳の時に海外留学から帰国した長兄・[[湯地定基|定基]]に呼び寄せられる形で家族揃って[[東京]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]溜池2番地の湯地定基邸に転居し、
[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]・[[伊地知幸介]]や[[野津鎮雄]]らの勧めにより、躊躇しながらも[[数え年|数え]]20歳で乃木希典と結婚。「静子の方が希典に対して興味・想いを持っていた」とされる文献もあるが、これは間違いである。事実は逆で、希典の方が「鹿児島の女子しか嫁に貰わぬ」と述べている。
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