「乃木静子」の版間の差分

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[[安政]]6年([[1859年]])11月6日、[[薩摩藩|鹿児島]][[藩医]]・[[湯地定之]]と[[湯地貞子|貞子]]夫妻の4女(7人[[兄弟姉妹]]の末っ子)として[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在塩屋村(現在の[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[甲突町]])に出生。[[幼名]]は'''お七'''、または'''お志知'''。
 
[[明治]]5年([[1872年]])[[12月2日]]、[[数え年|数え]]14歳の時に海外留学から帰国した長兄・[[湯地定基|定基]]に呼び寄せられる形で家族揃って[[東京]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]溜池2番地の湯地定基邸に転居[[東京府]][[麹町区]]にある麹町女學校に入学する現・[[千代田区立麹町女學小学]])を卒業した<ref name="nnp">『乃木静子』(冬湖・[[宿利重一]]著、春秋社、昭和12年、「年譜」)に[[明治初期に創立され、明治中期7年]]に[[廃校麹町区|廃学麴町元園町一丁目]]附近の麴町女學校なった入學し[[初等教育]]を受けとある。当時当地で[[女性]]に初等教育を施す同名學校は存しない在の[[千代田区立麹町小学校]]の前身である麴町女學校であるまたなお、[[麹町学園女子高等学校|麹町学園]]が麹の前身である麴町女學校の流れをくむと噂されるも、確たる証拠いまのところ発見されていないがそれ[[明治38年]]9月12日に[[大築佛郎]]が私財をなげうって[[麹町区|麹町元園町二丁目四番地]]に創立した女性に[[高等教育]]示唆學校であ文献は多数存在する)。</ref>
 
[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]・[[伊地知幸介]]や[[野津鎮雄]]らの勧めにより、躊躇しながらも[[数え年|数え]]20歳で乃木希典と結婚。「静子の方が希典に対して興味・想いを持っていた」とされる文献もあるが、これは間違いである。事実は逆で、希典の方が「鹿児島の女子しか嫁に貰わぬ」と述べている。