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{{出典の明記|date=2012年10月1日 (月) 07:53 (UTC)}}
{{Wiktionarypar|現実}}
 
'''現実'''(げんじつ、{{lang-en-short|Reality, Actuality}})は、いま目の前に[[事実]]として現れているもののこと。[[対義語|対語]]は'''虚構'''([[フィクション]])ないし'''[[理想]]'''。あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。現実と区別されるのは、嘘や真実を組み合わせてできたものである。
 
== 現象と現実 ==
個々の主体によって主観的に経験される[[現象]]は、[[幻想]]や錯誤や虚構の可能性があるため、ある種の普遍性や必然性をつ現実とはイコールではない。とはいえ、もしこのようなそれ自体は常識的な立場を推し進めれば、ある現象を現実として認めるための根拠として、主観的な経験が役に立たないということになってしまい、一定の困難が生じる(たとえば[[荘子]]の「胡蝶の夢」)。また、根を同じくする問題として、「同じ現実を人々が共有している」ことをいかにして保証するかが懐疑主義的な議論においては問題となる(その根拠付けとしてのたとえば[[イマヌエル・カント|カント]][[現象学#超越論的主観性|超越論的主観性]]や[[物自体]])。
 
そこで現象を現実として規定する主観としての[[理性]]や[[悟性]]、あるいは複数の人々の経験的現象の一致や、経験的現象それ自体の整合性や性質など、いくつかの基準が提案されてきた。とはいえ、この場合「同一の現実を共有している」とはどのような事態を意味するのか、ということにおいても、意見の一致が見られるわけではない。現実が主観的な経験によって定義されないとすれば、自己の経験している主観的な現実や、それについての言語的な報告の一致によっては、現実の共有を定義なり保障なりすることは難しいからである。
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[[仮想現実]]においては、「上位」あるいは「より基底的」とされた現実に対しては、「下位」あるいは「派生的」なシミュレートされた現実は虚構の側面を有することになる。<ref>なお、「上」「下」という表現については、より「現実」のがわのものは、優先度や制約性に着目したときは「上位の」と表現されるのに対し(決定のオーダーにおける上位というイメージである)、基底性など、「下で支える」という点に着目したときは「下位の」という表現が選ばれる傾向があり(マルクス主義の「下部構造」など)、一定の紛らわしさが存在する</ref>これに対し、[[バーチャルリアリティ]] virtual realityという場合の現実は、機能面だけを実現したvirtual companyがあるように、少なくともその本質や効果においては実物と同等の、実質的な現実をあらわす。しかしながら、現実に起こることもある。
 
仮想と現実について[[西部邁]](評論家)はこう述べている。「リアリティ、つまり「現実性」という言葉がある。仮想性と現実性の関係はどのようなものか。現実とは、長期的に安定している仮想のこと、つまり繰り返して再現される現象のことなのである。つまり、現実性とは、このような特殊な(というより慣習にもとづいているため極度に安定した)形態の仮想性なのだ。たとえば、自分の連れ合いや子供を親密な家族とみなすのは「仮想現実」にすぎない。しかしその仮想現実が日々反復されるなら、家族の人間関係が自分の周りに揺るぎない「現実」として在る、とその人は思うに至るだろう。」<ref>{{Cite book|和書|author=西部邁|title=虚無の構造|year=2013|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|page=172}}</ref>。」
 
== 虚構と現実 ==
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== 理想と現実 ==
虚構とともに現実と対比される[[理想]]は、現実であるべきものとされた虚構であるといっていい。それは原則的にはいまだ現実化していないことと、これから現実化しうるはずの<!--理念としての理想-->ことという2つの条件を持つ。また、派生性な虚構とは異なり、理想は、克服すべき矛盾と捉えられた現実に対する実践を主体に課す。そのため理想の実現に対する障害としての現実が強調される。外的な制約条件である現実は、行為する主体に対する外的な干渉と抵抗という側面に着目した概念でもある。この点、客観的な対象化を前提しており主体を除外した「事実」とは異なる。
 
== 言語と現実 ==
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==== 中世哲学 ====
この区別は、現実存在(existentia)と本質存在(essentia)との区別として継承されていくこととなり、中世哲学においては、[[普遍論争]]での[[唯名論]](nominalism)と[[実念論]](realism)との対立として現れている。類的概念の実在性を肯定する実念論では、アダムの犯した罪を全ての人間が負うという原罪の問題は解決される。これに対して唯名論では、類的概念の実在性は否定された。この立場は、のちに[[イギリス経験論]]などに継承されていくことになる。
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[[Category:現実|*]]
[[Category:哲学の主題]]