「ティビリヌの修道士殺害事件」の版間の差分

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'''ティビリヌの修道士殺害''' ([[フランス語]]:L'Assassinat des moines de Tibhirine)は、[[アルジェリア内戦]]中の[[1996年]]に発生した、[[アルジェリア]]のティビリヌ<ref group="Note">[[アラビア語]]ではティーブヒーリン(تيبحيرن)</ref>修道院のトラピスト会([[厳律シトー会]])修道士7人が誘拐され、殺害された事件である。1996年3月26日から3月27日の夜にかけて7人の修道士たちが誘拐され、2ヶ月間監禁されていた。1996年5月21日、[[武装イスラム集団]](GIA)は修道士たちを殺害したと表明した。
 
==ティビリヌ修道院==
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作家ジャン=マリー・ルアール([[:fr:Jean-Marie Rouart|fr]])は、[[アカデミー・フランセーズ]]での学術講演において、修道院の光景を以下のように説明している。
 
{{cquote|そこは、世界で最も美しい風景の一つに面して建てられた、禁欲的な大きな建物だが、暖かみがあり居心地の良いものだった。[[ヤシノキ]]、タンジェリン・オレンジ、[[バラ]]が、雪をかぶった[[アトラス山脈]]がせまる土地に植えられていた。水源から湧く澄んだ水が、菜園の灌漑に使われていた。小鳥、[[ニワトリ]][[ロバ]]、そこには生命があった。男たちは、全てから遠いこの地に、本質的な美しさ、空、雲を持つ地に定住することを選んだのである。彼らは他の人間とは違った。彼らは快適な暮らしやテレビを求めなかった。私たちが必要とするものは彼らにとっては役に立たないもので、等しく厄介なものだったのだ。}}<ref>Jean-Marie Rouart, ''Les moines de Tibhirine'', discours académique du 06/12/2001, [http://wikiwix.com/cache/?url=http://www.academie-francaise.fr/immortels/discours_SPA/rouart.html discours en ligne]</ref>。
 
==誘拐と殺害==
===危険の兆候===
1993年12月14日、12人の[[クロアチア人]]労働者たちが修道院からわずか数マイルのところで殺害された<ref name="histoire">
{{Lien web | url =http://www.la-croix.com/Religion/S-informer/Actualite/L-histoire-des-moines-de-Tibhirine-_NG_-2010-09-04-578037
| titre =L’histoire des moines de Tibhirine
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| consulté le =6 sept. 2010
}}
</ref>。犯人はクロアチア人労働者を[[ムスリム|イスラム教徒]][[キリスト教徒]]とに分け、キリスト教徒を殺害した。しかし、3人のクロアチア人が、イスラム教徒である[[ボスニア人]]の連帯によって生き残った。1994年1月22日、修道士たちはこの事件について虐殺の回避を求める書簡をラ・クロワ紙([[:fr:La Croix|fr]])に送った。書簡が新聞に掲載されたのは同年2月24日であった<ref>« "Ici, tous musulmans !" pour échapper à la tuerie », dans ''La Croix'', 6 septembre 2010, {{p.}}15.</ref>。
 
1993年12月24日、GIAに属する一団が修道院へ押し入った。首領のSayadサヤード・アッティヤ(Sayad AttiyaAttiya)は、修道院に革命税の支払いを要求し、修道院コミュニティーで医師を務めるリュック修道士を連れて行くと脅迫した。修道院長クリスティアン・ド・シェルジェは武装集団に対し、リュック修道士は修道院にやってくる全ての患者にとって必要な存在であると思い起こさせたうえで、要求を拒否した。Attiyaアッティヤはその日、彼らを傷つけることなく立ち去った<ref name="histoire"/>。
 
===誘拐===
1996年12月26日から27日にかけての夜間、約20人の武装集団が修道院の入口に現れた。彼らは武力で内部に侵入し、回廊へ向かって行き7人の修道士たちを連れ去った。修道院コミュニティーに属する2人の修道士、ジャン=ピエール修道士とアメデ修道士は、修道院の自室ではなく他の場所で就寝していた)はため襲撃から逃れた<ref name="histoire"/>{{,}}<ref name="temoignageradio">Frère Jean-Pierre et frère Amédée, seuls survivants et témoins directs des évènements de 1993 et 1996, livreront leur récit au micro de Philippe Reltien pour l'[[:fr:Interception (émission de radio)|émission Interception]] de France Inter du 8 avril 2007</ref>。現在も、修道士たちを連れ去った人物たちの特定ができていない<ref name="LCcircons-1"/>。
 
===交渉===
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一度現れただけで、この密使は二度と当局と接触しなかった<ref name="LCcircons-1"/>{{,}}<ref>[http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/2009/12/21/SecretD_1.pdf Transcription de l'enregistrement du 20 avril], document déclassifié par le ministère de la défense français</ref>。
 
フランス本国では、[[対外治安総局]](DGSE)と[[国土監視局]](DST)が捜査を指揮していた。この2つの機関は競争状態にあり、交渉に損害を与えていたようである<ref name="LCcrime"/>{{,}}<ref name="fig280810-1"/>。一方、[[ヴァール県]]元知事、ジャン・シャルル・マルアーニ([[:fr:Jean-Charles Marchiani|fr]])も、捕虜の解放を働きかけていた。しかし当時のフランス首相[[アラン・ジュペ]]によってマルアーニによる解放交渉は拒否されてしまった<ref name="LCcrime"/>{{,}}<ref name="fig280810-1"/>。
 
===殺害===
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5月30日、アルジェリア政府はメデア近郊で修道士たちの遺体の一部が見つかったと発表した<ref name="LCcircons-1"/>。殺害された修道士たちが所属する修道会、厳律シトー会の検事長アルマン・ヴェイユーはアルジェリアへ派遣され、彼らの遺体の確認に立ち会おうとした。最初、彼は在アルジェリア・フランス大使館から立会を拒否された。その時初めて、見つかった遺体の一部とは、修道士たちの切断された頭部だけだと知らされたのである。その後、公式に検死を行うことについてアルジェリア当局が言及することはなかった<ref name="LCcrime"/>。しかしながら、軍病院の遺体安置所で行われた修道士たちの身元確認は5月31日に終了した。身元確認には、駐アルジェリア・フランス大使ミシェル・レヴェック、その他に同行した憲兵隊の内科医、カトリックのアルジェ大司教アンリ・テシエ([[:fr:Henri Teissier|fr]])、厳律シトー会検事長アルマン・ヴェイユー、そして襲撃から逃れ生き残った2人の修道士のうちの1人、アメデ修道士が立ち会った<ref name="LCcircons-1"/>。
 
1996年6月2日、アルジェの[[ノートルダム・ダフリク大聖堂]]([[:fr:Basilique Notre-Dame d'Afrique|fr]])で、7人の葬儀が行われた<ref>[http://www.ina.fr/economie-et-societe/religion/video/CAB96022869/funerailles-a-alger-des-moines-trappistes-du-monastere-de-tibhirine.fr.html Reportage sur les obsèques sur le site Ina.fr]</ref>。2日後に彼らはティビリヌ修道院の墓地に埋葬された。フランス政府は犠牲者遺族のアルジェリア渡航を断念させようとした。クリストフ・ルブルトンの実姉とその夫の2人だけが入国ビザを取得した。軍が展開してティビリヌ周辺やその沿道で監視を行った。
 
1994年の春から1996年夏にかけて、アルジェリアで殺害されたカトリックの修道士、聖職者たちは19人にのぼった。その中にはティビリヌの修道士たち、[[ティジ・ウズー([[:fr:Tizi Ouzou|fr]]のペール・ブラン([[:fr:Pères blancs|fr]])の宣教師たち4人、1996年8月1日に殺害された[[オラン]]司教ピエール・クラヴリー([[:fr:Pierre Claverie|fr]])が含まれている<ref>Dont le jeune père [[:fr:Christian Chessel]].</ref><ref>« Dix-neuf religieux assassinés en deux ans », dans ''La Croix'', 6 septembre 2010, {{p.}}14</ref>{{,}}<ref>[http://www.africamission-mafr.org/sang_martyr.htm « Les Martyrs d'Algérie 1994-1996 »]. Biographie des religieux assassinés en Algérie en 1994-1996, sur le site africamission.</ref>。
 
==修道士たち==
事件当時にティビリヌ修道院におり、犠牲となったのは以下の人々である(<small>カッコ内の年齢は死亡時のもの</small>)。
*クリスティアン・ド・シェルジェ(59歳) - 1984年よりティビリヌ修道院長。1964年に司祭に叙階された。1969年に修道士となり、1971年よりアルジェリア在住。
*リュック・ドシエ(82歳) - 1941年に修道士となる以前、[[リヨン]]の病院でインターン医師として働いた。[[第二次世界大戦]]中、従軍医師となり、[[ドイツ軍]]の捕虜となり収容所へ送られた。[[アメリカ軍]]によって1945年に解放され、1946年8月よりアルジェリア在住。彼はアルジェリア国籍を取得していた。50年以上ティビリヌで暮らしており、隣人であるイスラム教徒も差別することなく、無料で医療を行っていた。タギアと呼ばれる帽子をかぶり、室内履きを履いたドシエは、近隣のアルジェリア人たちからイスラム教のマラブー([[:fr:Marabout|fr]])に似た聖なる人物であるとみなされていた。[[アルジェリア戦争]]時代の1959年、国民解放軍([[:fr:Armée de libération nationale|fr]])に誘拐されたことがあるが、彼が修道院近隣の住民たちに慕われる医師であったため解放された。コミュニティー内ではミシェル修道士とともに調理も担当していた。
*クリストフ・ルブルトン(45歳) - 1974年に修道士となる。1987年よりアルジェリア在住。1990年に司祭に叙階された。コミュニティー内では農作業を担当。
*ミシェル・フルーリー(52歳) - [[マルセイユ]]で10年間、港湾労働者などをして働いていた。1981年に修道士となり、1985年よりアルジェリア在住。プラド司祭会(l'Institut du Prado)の一員。コミュニティー内の調理担当
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事件後、生き残ったトラピスト会の修道士たちはティビリヌから退避し、モロッコのミデルト近郊のノートルダム・ド・ラトラス修道院(prieuré Notre-Dame de l'Atlas)へ移った。
 
*アメデ(本名はジャン・ノート、1920年-2008年) - 1946年にティビリヌ修道院へやってきた。1952年に司祭に叙階された。近隣の農村の子供たちに読み書きを教えており、彼らから[[ークャイフ|シェイフ]]・アメデ(cheikh Amédée、アメデ長老)と呼ばれていた。1996年の事件後アルジェに移り、時折ミデルトへやってきた。病気の治療を受けていたフランス本国で死去<ref>{{lire en ligne|lien= http://jean-yves.larbanet13.perso.neuf.fr/fourmi.htm |titre=Chronique du P. Guy Gilbert, portrait de Frère Amédée}}dans ''UNE PETITE FOURMI DE MOINE" paru dans « La Croix » du 18 août 2008''</ref>.。
*ジャン=ピエール・シュマシェール(1924年-) - [[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]の労働者階級の生まれ。18歳で[[ドイツ国防軍]]に入り、ロシア戦線へ送られるところを、[[徴兵検査]]の際に[[]][[結核]]であると虚偽の診断がなされ、徴兵を逃れた。1953年に司祭に叙階された。1964年にティビリヌへやってきた。1997年、クリスティアン・ド・シェルジェの後任としてノートルダム・ド・ラトラスの修道院長となった<ref>Sources [http://www.algeria-watch.org/fr/article/just/moines/plainte_texte.htm algeria-watch L’enlèvement et l’assassinat de sept moines français à Tibhirine, en Algérie, en 1996, Texte de la Plainte] et [[:fr:Henry Quinson]], [http://frat.st.paul.pagesperso-orange.fr/TibhirineActeurs.htm Portrait des moines]</ref>{{,}}<ref>[http://regardsurmedea.blogspot.com/2008/12/la-chanson-des-gueux-jean-richepin.html Regard sur Medea : association les amis de la ville de medea mardi 23 décembre 2008 ''Les moines du monastère de Tibhirine'']</ref>。
 
==殺害の状況==
修道士たちの殺害の状況は謎に包まれている。おり、いくつかの説が挙げられている<ref name="LCcrime"/>{{,}}<ref name="PB">Philippe Broussard, « Un drame, trois thèses », dans L'Express, n°3087, 1er septembre 2010, p.108</ref>{{,}}<ref name="fig072010"> Thierry Oberlé, « Sarkozy lève le secret-défense sur Tibéhirine » archive, sur lefigaro.fr, La Figaro, 8 juillet 2009. Consulté le 7 sept. 2010</ref>。
 
===アルジェリア政府の公式見解===
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===アルジェリアのシークレット・サービス関与説===
アルジェリアの反体制派の一部は、政府のシークレット・サービスが修道士たちの殺害を画策したと非難している。シークレット・サービスはGIAに潜入しており、ジトゥーミへの協力者もいた。ジトゥーミの協力者が犯人だとしたら、彼はGIAに対する世論を落とすために、修道士たちの誘拐と殺害を行っただろう。1996年に起きたオラン司教ピエール・クラヴェリー殺害事件は、シークレット・サービスが関与したとみなされている<ref name="LCcrime"/>{{,}}<ref group="Note">2002年、[[Canal+]]の番組で放送された2つの話は、かつてアルジェリアのシークレット・サービスに所属していた者への告発を確認するものだった。番組は、ティビリヌの修道士たちの誘拐と殺害を実行したジャメル・ジトゥーニが、実はアルジェリア軍の安全保障部門に加担していたと告発した。最初はレミ・ポートラ([[:fr:Rémy Pautrat|fr]]、ロカール政権時代の高等弁務官)から発せられた。ポートラはDSTの元トップで、当時フランス国防省の主席補佐官になっていた。彼は1994年末、アルジェリアのシークレット・サービスのナンバー2であるスマイン・ラマリから、GIAを操るためにジャメル・ジトゥーニをGIAのトップに据えたと自慢された。2人目は、アルジェリア特殊軍元兵士アフマド・シュシャである。1995年春、DCSA(La Direction centrale de la sécurité de l'armée)の後援者である将軍カメル・アブデラーンとバシル・タルタグが、シュシャに地下に潜っているジトゥーニへの支援を命じ、『あの男は我々側の者だ。お前は彼と仕事をするのだ。』 と言ったという(voir ''Attentats de Paris : enquête sur les commanditaires'', 90 minutes, Canal plus, novembre 2002)</ref>。
 
軍によって事件が操作されていたという説は、修道士たちが身柄を拘束されている間、アルジェのアブデラザク・エル・パラという確認された人物がいて、さらにこの説の信憑性が増していた。彼はアルジェリア軍の元軍人で、1990年代初めに軍務を放棄して秘密のイスラム集団に身を投じていた。彼は、実際はアルジェリア軍の安全保障部門のエージェントであったと考えられている<ref name="fig280810-1">{{Lien web | url =http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2010/08/28/01016-20100828ARTFIG00001-moines-de-tibhirine-qui-a-peur-de-la-verite.php | titre =Moines de Tibhirine : qui a peur de la vérité ? | auteur =christophe dubois | année =28 août 2010 | éditeur = Le Figaro | site =lefigaro.fr | consulté le =9 sept. 2010 }}</ref>{{,}}<ref>''[http://www.monde-diplomatique.fr/2005/02/MELLAH/11905#nb5 Enquête sur l’étrange « Ben Laden du Sahara »]'' de Salima Mellah et Jean-Baptiste Rivoire dans le Monde Diplomatique de février 2005</ref>。
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しかし、ビュシュヴァルテールの説には弱点もあった。彼の説には証人となる人物が1人しかいなかった<ref name="LCcrime"/>。加えて、ビュシュヴァルテールの件を担当するマルク・トレヴィディック判事はヘリコプターを操縦していた兵士を見つけることができなかった。ビュシュヴァルテールの証言の根拠となる話を聞かせた人物の兄弟は、既に亡くなっていたのである<ref name="Jmp">J.-M. P., ''Tibéhirine : l'enquête impossible ?'', L'Express n°3093, 13 octobre 2010</ref>。最終的に、軍のヘリコプターの介在によって7人の修道士たちの死が引き起こされたという状況には、技術的な不確実さが残ることになった<ref name="LCcrime"/>。
 
ビュシュヴァルテールの声明から1日後、事件当時収監中で後に恩赦によって釈放されている元武装イスラム集団リーダー、Abdelhakアブデルハク・ラヤダ(Abdelhak LayadaLayada)は、フランス対外情報防諜局([[:fr:Service de Documentationdocumentation Extérieureextérieure et de Contrecontre-Espionnageespionnage|fr]])との交渉決裂後にGIAが修道士たちの首を切断して殺害したと反論した<ref>{{cite news |url=http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5h6l8r6xT288R1SkBzvKtcHGztyFA |title=GIA executed French monks in Algeria in 1996: former chief |publisher=AFP |date=9 July 2009}}</ref>。
 
===複合的な責任説===