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en:Maxime Weygand oldid=764362106、fr:Maxime Weygand oldid=134338017より抄訳
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== 生涯 ==
[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]で非嫡出子として生まれ、実母より世話を頼まれたとされる未亡人の看護師ヴィルジニー・セージットによって育てられた<ref>Barnett Singer, Maxime Weygand: a biography of the French general in two world wars, 2008, McFarland & Co.</ref>。6歳の時、レオポルド2世の友人だった裕福なユダヤ商人{{仮リンク|ダヴィッド・デ・レオン・コーヘン|fr|David de Léon Cohen}}を後見人として、フランスのマルセイユで育った。彼の出自については現在に至るまで仏白両国の歴史家たちが様々な学説を立てている。例えば、フランスのシャルル・フヴェはベルギー国王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]とリトアニア貴族の娘の隠し子であるとの説を挙げた。一方、ベルギーの歴史家で作家の{{仮リンク|アンドレ・カステロ|fr|André Castelot}}は、レオポルド3世との対談や当時の書簡によってレオポルド1世の第1王女[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン]]と男爵{{仮リンク|アルフレ・ファン・デ・スミッセン|fr|Alfred van der Smissen}}の子という説を挙げた。また、フランスのジャーナリストの{{仮リンク|ドミニク・パオリ|fr|Dominique Paoli}}は、父はファン・デ・スミッセンだが、母はメッテルニヒの娘{{仮リンク|メラニー・メッテルニヒ=ジチ|en|Melanie Metternich-Zichy}}であるという説を主張している<ref>“Maxime ou le secret Weygand”, Domnique Paoli, Racine, Collection “Les racines de l’Histoire”, 2003</ref>。いずれにせよ、マキシム本人は生前ノーコメントを貫いた。
[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]で非嫡出子(ベルギー国王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]の隠し子という噂があるが、本人はノーコメントを貫いた)として生まれ、裕福なユダヤ商人を後見人として、フランスで育った。外国籍のまま[[サン・シール陸軍士官学校]]に入学し、1888年、フランスに[[帰化]]した。[[第一次世界大戦]]に[[フェルディナン・フォッシュ]][[元帥]]の[[参謀長]]として偉功をたてた。
 
1885年、外国籍のまま[[サン・シール陸軍士官学校]]に入学し、安南にて訓練を受ける。1887年、序列20位で卒業しソミュア騎兵学校に進学。翌年少尉に任官し{{仮リンク|第4竜騎兵連隊|fr|4e régiment de dragons}}附。なお、1888年10月18日にコーヘンの部下の会計士フランソワ=ジョセフ・ウェイガンと養子縁組しフランスに[[帰化]]した。
 
大尉昇進後、参謀学校への道を選ばず、騎兵学校教官となる。フランス世論で大きな論争となった[[ドレフュス事件]]では急進的な反ドレフュス派の立場をとり、1898年には彼の対独通牒の証拠捏造に関与したとして逮捕され獄中で自殺した{{仮リンク|ユベール=ジョセフ・アンリ|fr|Hubert-Joseph Henry}}中佐の遺族を支援している。しかしこの行為は戦争省より政治献金と見なされ、4日間の禁錮処分を受けた<ref>[[Pierre Quillard]], ''Le monument Henry – Liste des souscripteurs classés méthodiquement et selon l'ordre alphabétique'', éd. [[Éditions Stock|Pierre-Victor Stock]], Paris, 1899, {{Chap.}}« [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k625571.pleinepage.r=monument+Henry.f17.langFRhttp://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k625571.pleinepage.r=monument+Henry.f17.langFR L'Armée] », page 3 (vue 17 sur 718) : « Weygand, capitaine au {{9e}} dragons » ; {{pdf}} {{lire en ligne|lien=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k625571.pdf|texte=consultable en ligne sur le site ''gallica.bnf.fr''|date=3 juillet 2009}} ; 18 listes publiées par ''La Libre Parole'', entre le 14 décembre 1898 et le 15 janvier 1899.</ref>。のちの対独協力容疑を除けば、これはマキシムが唯一受けた刑罰であった。
 
[[第一次世界大戦]]に[[フェルディナン・フォッシュ]][[元帥]]の[[参謀長]]として偉功をたてた。
 
1920年、ロシア[[赤軍]]の反攻にさらされた[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]に[[軍事顧問]]として派遣され、同国の危機を救った([[ポーランド・ソビエト戦争]])。1923年に[[フランス委任統治領シリア|シリア]][[高等弁務官]]となる。
 
帰国後の1930年に陸軍参謀総長、翌1931年には陸軍最高司令官に就任した。陸軍を近代化して軍事力を向上させようと真摯に努力したが、保守主義者で人の神経を逆なでする性格だったため、左派の政治家と協調できず副官の[[モーリス・ガムラン]]とも不仲になった。1935年の退役後はスエズ運河の管理職ポストについた。
 
1939年の[[第二次世界大戦]]勃発とともに中近東軍総司令官に復帰。1940年5月、敗色の濃い中で連合軍総司令官に就任したが、[[ドイツ]]との休戦を主張し、同年[[フィリップ・ペタン]]対独協力[[政府]]の国防相、ついで1941年7月16日にフランス軍北アフリカ駐留軍総司令官兼[[フランス領アルジェリア総督|アルジェリア総督]]となった。[[シャルル・ド・ゴール]]にもドイツにも協力を拒んだため、1942年からオーストリアの{{仮リンク|イッター城|en|Itter Castle}}に抑留され、1945年の[[イッター城の戦い]]を経てアメリカ軍に救助された。戦後は対独協力の容疑をかけられたが、1948年に無罪となった。その後は、多くの問題を取り上げた書籍や記事を発表した。
 
1931年以来の[[アカデミー・フランセーズ]]会員で「フランス陸軍史」「回顧録」などの著書がある。
== 脚注 ==
 
<references/>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書