「細川藤賢」の版間の差分

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[[室町幕府]]第13代[[征夷大将軍|将軍]]・足利義藤(後の[[足利義輝]])に仕え、その[[偏諱]]を受けて'''藤賢'''と名乗る(義輝が「義藤」と名乗って将軍に就任したのは[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])であり、この当時藤賢はおよそ30歳なので、[[元服]]は既に済ませている筈だが、ここに至るまでの初名は不明である)。
 
[[永禄]]8年([[1565年]])、義輝が[[松永久秀]]・[[三好三人衆]]に[[暗殺]]されると([[永禄の変]])、[[松永久秀]]に降伏。その後、義輝の弟の[[足利義昭]]が[[織田信長]]に擁立されて15代将軍となると、[[京都]]に戻り義昭に仕えた。京都に義昭の居城・[[二条城]]を作る際は藤賢の屋敷の庭にあった「[[藤戸|藤戸石]]」という名石が使われた。この石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行った。
 
[[天正]]元年([[1573年]])に義昭が信長への兵を挙げようとした際にはこれを諌めた。しかし、聞き入れられずに義昭が挙兵すると藤賢も従う。その後は織田軍に城を包囲され、降伏。義昭は京都より追放されたが、藤賢は信長に許されて、[[近江国|近江]]の[[坂本城]]を任された。天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも旧公方衆として参加しており、中国地方に落ち延びた義昭とは行動を共にしなかった模様。