「ニキ・ラウダ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎エピソード: 読みやすく
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
95行目:
=== エピソード ===
*15歳の時に会社のトラックを運転して、工場間の短距離輸送をはじめていた。地元の警察官は名士の息子であるラウダが来ると手を振っていたが、18歳になり自動車運転免許を取得に警察へ来たラウダを見て、驚愕した。免許は取得できたものの、ラウダは厳しく叱られている。
*初めてレーシングカーを手に入れる際、売り手には事前に実家をみせた。購入条件はラウダが持っていた公道用のクルマと交換し、不足分はそれを売った時に支払うというものであった。仮にラウダが支払わなくても実家が支払うだろうと売り手に思わせる為であった。その後、ラウダは前述のやり方でマシンを購入し続けるのだが、手にいれたマシンは丁寧に扱っていた。
*フェラーリ入りして最初のテストで、感想を聞かれると「ひどいマシンだ」と切り捨てた(当時のフェラーリではマシンの批判は絶対禁句だった)。「フロントサスペンションを直してほしい」と要求すると、エンツォ・フェラーリは「よかろう、ただし1秒速く走れなければ、お前はクビだ」と告げた。ラウダは手直ししたマシンで1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示した<ref>『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニーマガジンズ、1998年、p103。</ref>。
*名誉に執着が無く、地元のガソリンスタンドで代金代わりにF1の優勝トロフィーを渡したこともあった。
*1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、病院では助かる見込みが少ないと思われ、神父を呼んで臨終の儀式まで行われていた。ラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとした。その後、エンツォにイタリアグランプリからの復帰を申し出たが「ダメだ。もし最終的に世界チャンピオンになれなかった時、事故のせいにできるから、あまり早く復帰しない方が良い」と一時は断られた。また、最終戦で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという。
*引退から2年経った1982年に[[フォーミュラ1|F1]]に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーである[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、それまでの現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度だろう。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答え、これにマールボロ側も了承したが、。そしてラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得するなど、1ドルの価値の高さを見せつけているした
*エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。