「ヴォルフハルト・パネンベルク」の版間の差分

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== 経歴 ==
1928年10月、シュテッティン(現ポーランド領[[シュチェチン]])に生まれる。税関吏の父親は転勤が多く、1942年にはベルリンに引っ越している。幼児[[洗礼]]は受けたものの、すでに両親は教会から距離を取るようになっていたため、家庭には特にキリスト教の雰囲気はなかった。また、10代の頃から[[フリードリヒ・ニーチェ]]の思想に親しみ、キリスト教に対して批判的な考えを持っていた。しかしその後、ニーチェが批判するキリスト教とは異なるキリスト教を発見し、神学を志すようになった。1944年に軍隊に入り、1945年には短期間であるがイギリスで捕虜生活を体験している。
 
[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で神学を学び、[[バーゼル大学]]のバルトのところに留学もしている。ハイデルベルク大学では、フォン・ラートの門下生たちと「パネンベルク・グルクル」を形成する。メンバーは、パネンベルクのほか、R・レントルフ、T・レントルフ、ウィルケンス、K・コッホ、D・レスラー、M・エルゼなど。
 
パネンベルク・グルクルによる論文集『歴史としての啓示』以来、パネンベルクは独自の歴史神学を展開しているが、同時に神学の学問性という問題にも取り組み続け、新しい自然神学の可能性を探究している。
 
1953年、ハイデルベルク大学のエドムント・シュリンク(1903年 − 1984年)の下で博士論文『[[ドゥンス・スコトゥス]]の[[予定説]]』を執筆し、それによって学位を取得。1955年、教授資格論文『類比と啓示』を執筆(出版は2007年)。1956年7月、ハイデルベルクの聖ペトロ教会の牧師に招聘。その後、[[ヴッパータール神学大学]](1958年 - 1961年)、[[ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ|マインツ大学]](1961年 - 1967年)、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]](1967年 - 1994年)で[[組織神学]]教授を歴任した。その間、アメリカの大学にも何度か招かれており、[[シカゴ大学]](1963年)、[[ハーヴァード大学]](1966年)などでも教鞭を執っている。
 
2014年9月、ミュンヘンにて死去(享年85)。
 
== 背景 ==