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→‎生涯: 洪秀全は洪家拳の後継者でもあったという説
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|皇后 =[[頼蓮英]]<ref>洪秀全『太平天日』によれば、天王の正妻は女神(「正月宮」とされた)。人間の正妻・頼蓮英は第一側室「又正月宮」とされた。</ref>
|注釈 =
}}{{中華圏の人物
}}
'''洪 秀全'''(こう しゅうぜん、{{ピン音|hóng xìu qúan}})は[[清]]代の[[亂党]]。[[キリスト教]]を基にした[[宗教]]教団、拝上帝会を興し'''天王'''を自称、[[南京市|南京]]を首都として清に反旗を翻し、国号を「太平天国」とした([[太平天国の乱]])。
 
== 生涯 ==
===拝上帝教の誕生===
[[広東省]][[広州市|広州]]福源水村出身で後に官禄土布村に移った[[客家]]人。農村の読書人の貧しい家庭に生まれ[[科挙]]及第を目指して役人になろうとしたが、1828年に県試と府試に失敗、1834年に院試に失敗、1837年に三度目の落第をしており、失意の日々を送っていた。このときの屈辱で熱病となり病床に就いている<ref>小島、19-21p</ref>。その病床で、老人から7現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の[[道光]]23年([[1843年]])春に再度郷試に臨むも落第した。この時[[梁発]]の『[[勧世良言]]』の影響を受けた洪秀全は[[孔子|孔]][[孟子|孟]]の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。『[[聖書]]』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として'''拝上帝教'''を説き始めた。拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性同士は兄弟、女性同士は姉妹とし、[[ヤハウェ]]を'''天父'''、[[イエス・キリスト|キリスト]]を'''天兄'''と称した。教義は[[三位一体説]]と大きく異なり、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次子とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。
当初[[広州市|広州]]付近で布教を行ったが成功はしなかった。道光24年([[1844年]])、洪秀全は[[馮雲山]]とともに[[広西チワン族自治区|広西]]に移動して布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。道光25年([[1845年]])から道光26年([[1846年]])の間に『[[原道醒世訓]]』、『[[原道覚世訓]]』、『[[百正歌]]』等の作品を発表している。道光27年([[1847年]])初め、広州に戻った洪秀全は教会で数ヶ月教義を学習し[[洗礼]]を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい[[馮雲山]]と合流、[[拝上帝会]]の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と次第に対立するようになる。
===太平天国の建国===
[[ファイル:HongXiuQuan TianWangFu Nanjing.jpg|right|200px|thumb|南京市[[天王府跡]]内の洪秀全像]]
{{中華圏の人物
| 名前=洪 秀全
| 画像=[[ファイル:HongXiuQuan TianWangFu Nanjing.jpg|right|200px|thumb|南京市[[天王府跡]]内の洪秀全像]]
| 画像=
| 画像の説明=南京市[[天王府跡]]内の洪秀全像
| 簡体字=洪秀全
| 繁体字=洪秀全
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| 英語名=Hong Xiuquan
}}
'''洪 秀全'''(こう しゅうぜん、{{ピン音|hóng xìu qúan}})は[[清]]代の[[亂党]]。[[キリスト教]]を基にした[[宗教]]教団、拝上帝会を興し'''天王'''を自称、[[南京市|南京]]を首都として清に反旗を翻し、国号を「太平天国」とした([[太平天国の乱]])。
 
== 生涯 ==
===拝上帝教の誕生===
[[広東省]][[広州市|広州]]福源水村出身で後に官禄土布村に移った[[客家]]人。農村の読書人の貧しい家庭に生まれ[[科挙]]及第を目指して役人になろうとしたが、1828年に県試と府試に失敗、1834年に院試に失敗、1837年に三度目の落第をしており、失意の日々を送っていた。このときの屈辱で熱病となり病床に就いている<ref>小島、19-21p</ref>。その病床で、老人から7現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の[[道光]]23年([[1843年]])春に再度郷試に臨むも落第した。この時[[梁発]]の『[[勧世良言]]』の影響を受けた洪秀全は[[孔子|孔]][[孟子|孟]]の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。『[[聖書]]』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として'''拝上帝教'''を説き始めた。拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性同士は兄弟、女性同士は姉妹とし、[[ヤハウェ]]を'''天父'''、[[イエス・キリスト|キリスト]]を'''天兄'''と称した。教義は[[三位一体説]]と大きく異なり、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次子とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。
当初[[広州市|広州]]付近で布教を行ったが成功はしなかった。道光24年([[1844年]])、洪秀全は[[馮雲山]]とともに[[広西チワン族自治区|広西]]に移動して布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。道光25年([[1845年]])から道光26年([[1846年]])の間に『[[原道醒世訓]]』、『[[原道覚世訓]]』、『[[百正歌]]』等の作品を発表している。道光27年([[1847年]])初め、広州に戻った洪秀全は教会で数ヶ月教義を学習し[[洗礼]]を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい[[馮雲山]]と合流、[[拝上帝会]]の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と次第に対立するようになる。
===太平天国の建国===
道光30年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[1851年]][[1月11日]])、洪秀全は[[金田起義|起義]]を宣言して清朝に反旗を翻し、天王を称して太平天国を建国した。[[咸豊]]2年([[1852年]])、太平軍は広西から[[湖南省|湖南]]へと進出、咸豊3年([[1853年]])には南京を占拠、天京と改称し太平天国の首都に定めた。太平天国前期では軍事関係は全て軍師により指揮され、洪秀全は軍事行動と距離を置いて朝政を司っており、その大権は東王[[楊秀清]]によっていた。
天京に首都を定めた後、洪秀全は[[四書五経]]を禁書としようとしたが楊秀清はこれを拒否、結局禁書指定は行われなかったが、この事件をきっかけに洪秀全と楊秀清の溝が深まることとなった。洪秀全は同じく楊秀清に不満を募らせている北王[[韋昌輝]]、翼王[[石達開]]、燕王[[秦日綱]]と協力し、咸豊6年([[1856年]])に3人に対し楊秀清誅殺の密詔を出し、9月には[[天京事変]]が発生、楊秀清、韋昌輝、秦日綱が粛清された。事件後は翼王である石達開が実権を掌握したが、洪秀全は兄弟である[[洪仁発]]、[[洪仁達]]をそれぞれ安王、福王に封じて重用し<ref>小島、222p</ref>石達開を牽制、結果石達開の不満を引き起こし、石達開は大軍を率いて洪秀全の指揮を離脱した。一連の政変で太平天国の実権を掌握した洪秀全であるが、これ以降太平天国の勢力は急速に衰えていく。なお安王と福王は見識も才能もなく、はなはだ評判が悪かったこともあり1859年に王号を剥奪されている<ref>小島、226p</ref>。