「丸山眞男」の版間の差分

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=== 「運動」に関して ===
* [[1968年]](昭和43年)の[[東大紛争]]の際、大学の研究室を占拠して貴重な資料・フィルムを壊した[[全学共闘会議|全共闘]]の学生らに[[1969年]]1月19日、東大の安田講堂の封鎖が機動隊によって解除され、直後に法学部の研究室に入った姿を、同日の[[毎日新聞]]は{{Quotation|床にばらまかれ、泥に汚れた書籍や文献を一つ一つ拾いあげ、わが子をいつくしむように丹念に確かめながら『建物ならば再建できるが、研究成果は……。これを文化の破壊といわずして、何を文化の破壊というのだろうか』とつぶやいていた。押(おさ)えようとしても押えきれない怒りのため、くちびるはふるえていた<ref>2016年2月15日朝日新聞夕刊・連載記事「新聞と9条」特集</ref>。}}と報道された。後にこの事を「[[ファシスト]]でもやらなかったことを、やるのか」と発言した<ref name="yamamoto">[[山本義隆]] 私の1960年代</ref>。これについて[[吉本隆明]]は、たかが大学生に研究室に踏み込まれたくらいで大袈裟な言い草である、自分などは資料収集のために図書館の列にいつも延々並んでいる、生活費を稼ぐ仕事の合間に研究しているんだ、と非難している<ref>「収捨の論理」『吉本隆明全著作集 続 10 思想論Ⅱ』</ref>{{Sfn|竹内|2012|p=326}}
* [[安保闘争]]後、[[市民運動]]が活発になった際に、弟子の[[松下圭一]]らは「[[市民]]が成熟して「市民感覚」が養われるようになった」と主張していたが、丸山は、そのような政治参加は「パートタイム」的なものにとどめるべきものだと述べた。日記にも「[[全共闘]]の“いい気になっている”指導者たち」と批判していた<ref name="yamamoto"></ref>。
 
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* 『世界』初代編集長の[[吉野源三郎]]とは、終生深い親交があった{{要出典|date=2016年12月}}。
* 作家の[[武田泰淳]]や[[埴谷雄高]]<ref>埴谷雄高「時は武蔵野の上をも」(『現代思想 特集丸山真男』1994年1月号、青土社)所収。互いの晩年に出版された、映画・音楽論集『幻視者宣言』(三一書房)に詳しい。</ref>、中国文学者の[[竹内好]]とは家族ぐるみの付き合いがあった。また竹内については、「『ふつう好さんのことを[[ナショナリスト]]と言うでしょう。ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。20年以上のつきあいを通して、好さんには[[コスモポリタニズム]]が感覚としてある、と肌で感じます』と述べている」<ref>小熊英二 『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』 (新曜社、2002年)</ref>。
* [[鶴見俊輔]]とは、(戦後初期の)雑誌『[[思想の科学]]』創刊以来の付き合いがあり、丸山は終生、[[思想の科学研究会]]の会員であったが、同研究会方法がんでもありの「イラハイイラハイ主義」と揶揄してる<ref>「普遍的原理の立場」『丸山眞男座談』7</ref>{{Sfn|竹内|2012|p=330}}。また鶴見の哲学は信用するが、「日常感覚は信用しなんだな」「育った生活環境からいってもわたしのほ批判をがはるかにドロドロた『前近代的』なものなんですよ」と述べてい{{要出典Sfn|竹内|2012|datep=2016年12月330}}。
*1980年11月早稲田大学大隈講堂で催された[[大山郁夫]]生誕百年記念講演会の講演会であいさつ<ref>丸山真男集別巻 年譜・著作目録(岩波書店)</ref>。