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'''太宗'''(たいそう)は、[[唐|唐朝]]の第2代[[皇帝]]。高祖[[李淵]]の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。[[隋]]末の混乱期に李淵と共に[[太原郡|太原]]で挙兵し、[[長安]]を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、[[626年]]にクーデターの[[玄武門の変]]にて皇太子の[[李建成]]を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
'''五胡'''(ごこ)は、中国の3~4世紀に、北方や西方から中国に移住した[[匈奴]]・[[鮮卑]]・[[羯]]・[[テイ (民族)|&#27664;]]・[[羌]]の5つの非[[漢民族]]([[少数民族]])を指す。これらの部族が[[五胡十六国時代]]に次々と中国北部を中心に国家を建てた[[東晋|晋]]代ごろから使われ始めた<ref name=":0">三崎、章2.2「『五胡』」P31-37</ref>。
 
広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、[[貞観の治]]と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、[[東突厥]]を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた<ref>{{Cite book|和書|author=|title=詳説世界史研究(改訂版)|date=|year=|publisher=山川出版社}}</ref>。[[軽騎兵|騎兵]]戦術を使った武力において卓越し、[[文治]]にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる<ref>宮崎市定『大唐帝国』中公文庫</ref>。
五胡十六国時代に国を建てた少数民族はこの5つ以外にもおり、五という数字に実数の意味はない<ref name=":0" />。五胡が匈奴・鮮卑・羯・&#27664;・羌を指すことが一般化したのは十三世紀ごろである可能性が高い<ref name=":0" />。また、この5つの民族のみでなく3~4世紀ごろに移住した少数民族の総称として使用されることもある。
 
== 概要生涯 ==
[[漢]]代までの中国は農民が城内に住んで農耕をしていたのに対して、おもに[[後漢]]代から中国に移住した匈奴などの遊牧民族は集落を作って、放牧あるいは半農半牧の生活をして独自の天子や[[単于]]の子孫を推戴していた。しかし集団を保っているとはいえ中国に臣属しているので戦闘力として頻繁に使われた<ref>宮崎、P124-130</ref>。[[西晋|晋]]代には異民族を境外に移住される論争([[徙戎論]])もあったが、[[八王の乱]]が起きると諸王が異民族を利用して権力を争い、異民族王朝の台頭のきっかけとなった<ref>三崎、P21-22</ref>。
 
=== 五胡の民族幼年 ===
[[598年]]に[[武功県]]で当時[[隋|隋朝]]の唐公で[[煬帝]]の母方のいとこにあたる父・[[李淵]]と[[宇文泰]]([[北周]]の始祖)の孫にあたる母・竇氏の子として生まれた。4歳の頃、李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済'''世'''安'''民'''」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」)と言った。そのため世民という[[諱]]がついたという<ref>『[[新唐書]]』本紀第二</ref>。
 
16歳のとき、[[隋]]の[[煬帝]]が雁門において[[突厥]]に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。
=== 匈奴 ===
{{Main|南匈奴}}
[[秦]][[漢]]帝国と対峙した北方遊牧民族である匈奴は、漢の[[武帝 (漢)|武帝]]の征討等によって次第に国力が衰微すると[[後漢]]代に分裂し、西走したものを[[匈奴|北匈奴]]、[[呼韓邪単于]](日逐王)の統制下で華北に移住したものが[[南匈奴]]と呼ばれる。後漢や[[魏 (三国)|三国魏]]の抑圧を受けながら南匈奴は漢民族と混在して農耕を受け入れ、定住化し、人口も[[西晋]]時代には100万を超えていた<ref name=":1">三崎、章1「後漢~西晋時代の少数民族」P7-26</ref>。
 
=== 挙兵 ===
[[304年]]に南匈奴の[[劉淵]]が漢王を称して西晋から独立し、劉淵が建てた漢([[前趙]])は西晋を滅ぼして五胡十六国時代の幕を開けた。同じく五胡十六国時代に、[[407年]]に南匈奴の末裔を名乗る匈奴[[鉄弗部]]の[[赫連勃勃]]が[[夏 (五胡十六国)|夏]]を建国した。
[[617年]]([[大業]]13年)、李淵が[[太原]]で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって[[長安]]に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。[[618年]]([[義寧]]2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。
 
=== 建国 ===
同618年([[武徳]]元年)5月、李淵が即位して唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、[[尚書令]]に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
{{Main|羯}}
羯(kyat)は漢代は匈奴に服属していた北西部の遊牧民であり、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた。[[月氏]]、[[康居]]類縁の[[トカラ人|トカラ]]系民族、東[[イラン]]系など諸説あり、その特徴は目が窪み鼻が高く髭の濃い顔立ちであったという記録があることから、西方系の種族中心の混血であると推測される<ref>三崎、P61</ref>。
 
李世民は武将として優れた才能を発揮し、[[薛仁杲]]・[[劉武周]]・[[王世充]]・[[竇建徳]]・[[劉黒闥]]といった[[隋末唐初の群雄の一覧|隋末唐初に割拠した群雄]]を平定するのに中心的役割を果たした。長兄の李建成は立太子された。
羯族は[[石勒]]の統制下で前趙を滅ぼして華北の大部分を征服した[[後趙]]を建てた。後趙が衰退すると、[[349年]]に漢人の部将[[冉閔]]が羯族を大量に殺し、その後羯族はほぼ歴史から姿を消した。
 
621年(武徳4年)、李淵は李世民の功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、'''天策上将'''の称号を王公の上に特別に設置して李世民に与えた<ref>『資治通鑑』巻189</ref>。同年、門下省に修文館(太宗の即位後に弘文館に改名)が置かれた。
=== 鮮卑 ===
{{Main|鮮卑}}
鮮卑はモンゴル系民族であるとされ、北東部で半牧半農の生活をしていた民族であるが、匈奴が衰退した後漢代にモンゴル高原に覇を唱えていた。[[180年]]ごろには[[檀石槐]]の統制下で全盛期を迎え、領土を拡大して後漢政府を苦しめた。檀石槐の死後、鮮卑は分裂して後漢や三国魏に懐柔された。その後も統一勢力が出ることはなく、[[遼西]]に[[宇文部]]・[[段部]]・[[慕容部]]、[[陰山山脈|陰山]]北部に拓跋部、さらに西部の小部族が[[河西区|河西]]や[[隴西郡|隴西]]に点在した<ref name=":1" />。
 
=== 玄武門の変 ===
慕容部は[[慕容カイ|慕容廆]]が遼西に勢力を築き、それを継承した[[慕容コウ|慕容皝]]が前燕を建てた。前燕は&#27664;族(後述)の[[前秦]]に滅ぼされたが、前秦が衰退するとその後継国家として[[後燕]]や[[西燕]](十六国に含まれない)が建てられた。[[南燕]]は後燕から独立した国家である。いずれも慕容部が建てたが、後燕から簒奪した[[北燕]]の創建者の[[高雲|慕容雲]]は[[高句麗]]人である。[[南涼]]や[[西秦]]などの国家は、西方に点在していた西部鮮卑によって建てられた。拓跋部は慕容部よりも遅れて中国化したが、北方に[[代 (五胡十六国)|代国]]を建て、代国は国号を魏に変えて[[北魏]]として[[華北]]を統一して五胡十六国時代を終わらせた<ref>川勝、章9.2「鮮卑慕容部・羌の諸国家」P324-342</ref>。段部や宇文部は慕容部に滅ぼされるが、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]には宇文部の子孫が[[北周]]を建てた。
李建成と李世民はしだいに対立し、李建成は李淵に訴えて李世民の謀士である[[房玄齢]]と[[杜如晦]]を遠ざけるなどの対抗策を採り李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は二人と密かに連絡し、[[626年]](武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の[[李元吉]]を殺害した([[玄武門の変]])。この政変により、李淵は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。
 
=== &#27664;即位 ===
即位して長孫氏を皇后に立てた太宗は、その直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受けた。『[[旧唐書]]』等の史書によれば、怒りにまかせた太宗は僅か6騎を伴い[[渭水]]に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げたと記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている。この事件は[[cmn:渭水之盟|渭水之盟]]もしくは渭水の辱と呼ばれる。
{{Main|テイ (民族)}}
&#27664;族は[[チベット民族|チベット]]系遊牧民族で西部の[[甘粛省]]・[[陝西省]]・[[四川省]]に居住していたが、[[前漢]]時代には農耕に移行し始めていた。後漢は安撫政策を使ったため、関係は安定していた。しかし三国時代になると征討や強制移住をされ、関中や天水に流入した。また、魏と蜀の両政権に組み込まれた<ref name=":1" />。
 
[[627年]]、元号を[[貞観 (唐)|貞観]]と改元した。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から[[魏徴]]を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、[[三省六部]]制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
&#27664;族の[[苻洪]]は後趙に従っていたが、後趙の混乱に乗じて独立して[[前秦]]を建てた。前秦は三代目の[[苻堅]]の時代に最盛期を迎え、拡大して華北を統一した。その際、[[西域]]の平定に向かわせた同じく&#27664;族の呂光が[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]での前秦の大敗を聞くと独自の国を立てて[[後涼]]とした。
 
[[629年]](貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。[[李勣]]・[[李靖]]を登用して出兵し、[[630年]](貞観4年)には突厥の[[頡利可汗]]を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に'''天可汗'''の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である[[可汗]]より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に[[640年]](貞観14年)、西域の[[高昌国]]を滅亡させ西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。
=== 羌 ===
{{Main|羌}}羌族は[[氐]]族とともに最も古くみえる部族の一つであり、同じくチベット系で西部の[[甘粛省]]・[[陝西省]]・[[四川省]]に居住していた。前漢時代には分散と連合を繰り返しながら匈奴と連携していた。後漢に服属すると華北各地に点在したが、後漢末に農耕化も進み、人口が増えるとたびたび反乱して後漢にとって脅威となった。三国時代の政権にはそれぞれの国家に戦闘力として利用された<ref name=":1" />。
 
文化的にもそれまで纏められていた『[[晋書]]』『[[梁書]]』『[[陳書]]』『[[周書]]』『[[隋書]]』の[[正史]]を編纂させ、特に『晋書』の[[王羲之]]伝では自ら注釈を行った。また[[645年]](貞観19年)には[[玄奘]]がインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。
前秦の瓦解後、羌族の[[姚萇]]が独立して[[後秦]]を建て、2代目の[[姚興]]の代に最盛期を迎えて華北の西部を従えた。
 
これらの充実した政策により、太宗の治世を[[貞観の治]]と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗と臣下たちの問答が『[[貞観政要]]』として編纂されている。
== その他の少数民族 ==
 
=== 丁零晩年 ===
太宗の晩年は立太子問題が発生した。当初立太子されたのは長子の[[李承乾]]であったが、太宗は弟の魏王[[李泰]]を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして廃された。魏王も[[朋党]]を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である[[長孫無忌]]の意向により、最も凡庸な[[高宗 (唐)|李治]](後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の[[武則天]]の台頭の要因となることとなった。[[649年]](貞観23年)に崩御した。
{{Main|丁零}}丁零はモンゴル高原北地を故地とするトルコ系の遊牧民族である。鮮卑が檀石槐の死後に勢いを失うと南下して三国時代には戦闘力と使われるなど、中国内地に部分的に住んでいた<ref name=":1" />。基本的に丁零の[[テキ魏|翟]]氏は華北の国に服属していたが、後燕から独立して[[テキ魏|翟魏]](十六国に含まれない)を建てた。
 
崩御後に諡号として'''文皇帝'''(ぶんこうてい)と贈られたが、[[674年]]([[上元 (唐高宗)|上元]]元年)、[[高宗 (唐)|高宗]]により'''文武聖皇帝'''(ぶんぶせいこうてい)に改められ、更に[[749年]]([[天宝 (唐)|天宝]]8年)、[[玄宗 (唐)|玄宗]]により再度'''文武大聖皇帝'''(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、そして[[754年]](天宝13年)に玄宗により'''文武大聖大広孝皇帝'''(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度改められている。
=== 巴賨 ===
304年に[[四川省|四川]]に[[成漢]]を建てた[[李特]]は&#27664;族系の[[巴|巴族]]で、西晋時代には祖父の[[李虎]]が四川に勢力を築いていた。
 
=== 盧水胡評価 ===
隋末唐初の混乱から国土を回復させ、後の唐の土台を築く治世を行ったこと、唐の領土を広げ、北方異民族の脅威を長年に渡って取り除いたこと、兄の李建成に、李世民の存在が皇太子の座を危うくしていること感じて殺害することを進言した魏徴の命を助け、彼を始めとする部下たちの諫言をよく聞き入れたことなどから、中国史上でも有数の名君と称えられる。一方で、即位に関して敵対関係にあった兄の李建成や弟の元吉に先んじて対抗処置として行った玄武門の変にて殺害していることが倫理的に批難される。また、高句麗遠征に失敗している。『太宗実録』の編者であった[[許敬宗]]は、[[賄賂]]により筆を曲げたと両唐書の伝にあり、太宗に関する記録の全てが信用できるとは限らない。
[[397年]]に[[北涼]]を建てた[[沮渠蒙遜]]の出身の盧水胡は、匈奴や月氏などその起源に諸説あるが、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた<ref name=":1" />。
 
=== 高句麗対外政策 ===
太宗の代からの唐は、中華のみならず四方の地へその影響力を持ったことからしばしば「世界帝国」と呼ばれる。太宗の代
{{Main|高句麗}}
高句麗は前漢の農耕社会の影響を受けて、後漢末に割拠した遼東公孫氏の影響で勢力を伸ばしたが三国魏によって首都が陥落されて以後族民の一部が内地に移住して西晋にも服属していた<ref name=":1" />。五胡十六国時代の華北政権にも服属し、前燕や後燕とたびたび覇権を争った。[[北燕]]の創建者の慕容雲([[高雲]])は前燕に敗れた際に移住した高句麗の王族である。
 
== 脚注人物・逸話 ==
太宗は[[能筆家]]としても知られ、臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど書に対する関心が強かった。また書聖と謳われる[[王羲之]]の真筆に対して異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたる[[智永]]という僧が持っていた「[[蘭亭序]]」の真筆を手に入れ、それを死後に[[昭陵 (唐)|昭陵]]に納めさせたと伝えられている。
<references />
 
== 参考文献十八学士 ==
李世民が秦王となったとき、文学館を建て、賢才を招聘した。[[杜如晦]]、[[房玄齢]]、[[于志寧]]、[[蘇世長]]、[[姚思廉]]、[[薛收]]、[[チョ亮|褚亮]]、[[陸徳明]]、[[孔穎達]]、[[李玄道]]、[[李守素]]、[[虞世南]]、[[蔡允恭]]、[[顔相時]]、[[許敬宗]]、[[薛元敬]]、[[蓋文達]]、[[蘇勗]]の十八人を学士とした。俗に秦王府十八学士とも言われている。
* [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』東方書店
* [[川勝義雄]]『魏晋南北朝』講談社学術文庫
* [[宮崎市定]]『大唐帝国』中公文庫
 
== 関連項目二十四功臣 ==
[[643年]](貞観17年)、太宗は自らと共に中国統一に功績のあった功臣24名を偲んで、凌煙閣という建物に功臣たちの絵を画家である[[閻立本]]に描かせた。名を挙げた順については、当時の功臣の序列を反映したものとなっている。俗に[[凌煙閣二十四功臣]]とも言われている。
* [[胡]]
 
* [[五胡十六国時代]]
'''二十四功臣'''
* [[中国の異民族]]
:[[長孫無忌]]、[[李孝恭]]、[[杜如晦]]、[[魏徴]]、[[房玄齢]]、[[高士廉]]、[[尉遅敬徳|尉遅恭]]、[[李靖]]、[[蕭ウ|蕭瑀]]、[[段志玄]]、[[劉弘基]]、[[屈突通]]、[[殷キョウ|殷嶠]]、[[柴紹]]、[[長孫順徳]]、[[張亮]]、[[侯君集]]、[[張公謹]]、[[程知節]]、[[虞世南]]、[[劉政会]]、[[唐倹]]、[[李勣]]、[[秦叔宝|秦瓊]]
 
== 宗室 ==
=== 后妃 ===
*[[長孫皇后]]
*[[韋貴妃]]、[[楊淑妃]](隋煬帝の公主であり、李元吉の元妻)、[[殷徳妃]]、[[劉賢妃]]<ref>『[[唐会要]]』巻21</ref>
*[[徐賢妃]](徐恵)
*楊婕妤
*蕭美人
*崔才人、蕭才人、武才人([[武則天]])、王氏、刀人高恵通<ref>『刀人高恵通墓志』によると、秦王時代の刀人(側女。品位は無かった)</ref>
 
=== 男子 ===
#廃太子[[李承乾]](恒山王あるいは常山王)
#楚王[[李寛]]
#呉王[[李恪 (呉王)|李恪]](鬱林王)
#魏王[[李泰]](濮王)
#斉王[[李祐]](廃されて庶人となる)
#蜀王[[李イン|李愔]]
#蒋王[[李コン|李惲]]
#越王[[李貞]]
#晋王[[高宗 (唐)|李治]](高宗)
#紀王[[李慎]]
#江殤王[[李囂]]
#代王[[李簡 (唐)|李簡]]
#趙王[[李福 (唐)|李福]]
#曹王[[李明]]
 
=== 女子 ===
#[[襄城公主]](蕭鋭に降嫁し、また姜簡に再嫁した)
#汝南公主(早世した)
#南平公主(王敬直に降嫁し、また劉玄意に再嫁した)
#遂安公主(竇逵に降嫁し、また王大礼に再嫁した)
#長楽公主[[李麗質]](母は長孫皇后。長孫沖に降嫁した)
#予章公主(幼い頃に母を失い、長孫皇后に養育された。唐義識に降嫁した)
#[[比景公主]](柴令武に降嫁し、のちに自殺させられた。比景公主に追封された)
#普安公主(史仁表に降嫁した)
#[[東陽公主]](母は長孫皇后。高履行に降嫁した)
#[[臨川公主]](母は韋貴妃。周道務に降嫁した)
#[[清河公主]]李敬(字は徳賢。程懐亮に降嫁した)
#[[蘭陵公主]]李淑(字は麗貞。竇懐悊に降嫁した)
#晋安公主(韋思安に降嫁し、また楊仁輅に再嫁した)
#安康公主(独孤謀に降嫁した)
#新興公主(長孫曦に降嫁した)
#[[城陽公主]](母は長孫皇后。杜荷に降嫁し、また薛瓘に再嫁した)
#[[合浦公主]](高陽公主)(幼い頃に母を失い、長孫皇后に養育された。房遺愛に降嫁し、のちに自殺させられた)
#金山公主(早世した)
#[[晋陽公主]]李明達(字は明達。母は長孫皇后。12歳で夭折した)
#常山公主(降嫁せず、[[顕慶]]年間に亡くなった)
#[[新城公主]](母は長孫皇后。長孫詮に降嫁し、また韋正矩に再嫁した)
:
 
== 太宗が登場する作品 ==
 
=== 小説 ===
* 『[[西遊記]]』
* [[小前亮]]著『李世民』([[講談社]]、[[2005年]]) ISBN 4-06-212927-2
 
=== 漫画 ===
* [[夏達]]著『[[長歌行]]』([[新世紀出版]]。日本では[[集英社]]。何れも2011年~。玄武門の変で殺害された李建成の娘を主人公としている。叔父である李世民への復讐を描いた作品)
 
=== テレビドラマ ===
*『[[西遊記シリーズ]]』(1978年 - 1980年、日本テレビ、演:[[中村敦夫]])
*『[[則天武后 (テレビドラマ)|則天武后]]』(1995年、中国、演:[[鮑国安]])
*『{{仮リンク|新・少林寺|zh|新少林寺}}』(1999年、中国、演:[[樊少皇]])
*『{{仮リンク|大唐雙龍傳|zh|大唐雙龍傳 (電視劇)}}』(2004年、香港、演:{{仮リンク|阮徳鏘|zh|阮德鏘}})
*『[[創世の龍 〜李世民 大唐建国記〜]]』(2006年、中国、演:{{仮リンク|沈暁海|zh|沈晓海|label=シェン・シャオハイ}})
*『{{仮リンク|皇帝 李世民〜貞観の治〜|zh|贞观之治 (电视剧)}}』(CS放映邦題『貞観の治』)(2006年、中国中央電視台、演:{{仮リンク|馬躍|zh|马跃 (演员)|label=マー・ユエ}})
*『{{仮リンク|貞觀長歌|zh|贞观长歌}}』(2007年、中国中央電視台、演:[[唐国強]])
*『{{仮リンク|大唐双龍伝|zh|大唐双龙传之长生诀}}』(2011年、中国、演:{{仮リンク|呉慶哲|zh|吳慶哲}})
*『[[武則天 -The Empress-]]』(2015年、中国、演:[[張豊毅|チャン・フォンイー]])
 
== 脚注 ==
<references />