「不知火光五郎」の版間の差分

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最高位は[[大関]](大阪相撲)。[[横綱]]を締めた錦絵が残るが、図柄は他力士の流用であり、土俵入りを行った記録はない。「山響改 '''不知火光右衛門'''」とあり改名の記念品との見方もある。<ref name="kougorou1"/>
 
== 概要 ==
筑前国嘉麻郡下山田で佐藤利平の次男として出生<ref name="kougorou2"/>。幼少の頃から力持ちとの評判で、巡業で訪れた、同じ筑前国出身の[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)|梅ヶ谷藤太郎]](後の第15代横綱)に見初められ、相撲界に入門。初め'''山田川'''と名乗ったとされるが番付に確認できないという。'''山響 光五郎'''の名で[[1869年]][[3月]]に[[幕下]]二段目で初めて[[番付]](大坂相撲)に登場した(初土俵はそれより数年前の[[江戸時代]]と見られている)。[[1871年]][[7月]]に新入幕。[[1874年]]9月京都での三都(東京・大阪・京都)合併相撲で[[雷電震右エ門]]を破り、さらに10月東京方も参加した大阪本場所で[[朝日嶽鶴之助]]を破るなど、実力の片鱗を見せ付けた。[[1875年]][[9月]]に[[小結]]、翌[[1876年]][[10月]]に[[大関]]に昇進<ref name="kougorou1"/>。しかし、当時の大坂相撲は各派がいがみ合って分裂するとの様相を見せており、自身も
[[黒岩重太郎]]一派に所属して脱走し、[[1878年]]9月に三役張出格で復帰するという苦労も味わった。その後も、場所には出ずに同部屋の力士と放浪するなどした。[[1881年]]7月久しぶりに帰参し'''不知火 光右衛門'''の名で三役格張出で出場、6勝1敗1分の成績を残した。上記錦絵はこの頃出たようである。
 
[[1882年]]2月、東上の意志を固め梅ヶ谷の門に入ったが、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で行われた東京・大坂合併相撲興行の2日目([[7月11日]])に34歳の若さで急逝した<ref name="kougorou1"/>。強さを妬まれての毒殺説がある<ref name="kougorou2"/>。墓は嘉麻市の梅林公園内にある安国寺。嘉麻市立上山田小学校では、彼を偲び、「相撲体操」が毎年披露されている<ref name="kougorou2"/>。
 
安国寺の境内には[[1993年]]に建立された不知火光五郎の立派な墓碑がある。「天下無双 大横綱」と彫られてはいるが実力者ではあったものの大阪相撲内でさえ第一人者ではなく(土付かずは新入幕の場所だけ)上記のように横綱土俵入りを行った記録さえないので誇大な肩書と言わざるを得ない。もちろん[[横綱土俵入り|不知火型土俵入り]]の始祖であるはずもなく墓碑を訪れた観光客が8代横綱[[不知火諾右衛門]]や11代横綱[[不知火光右衛門]]と勘違いする例が多いようである。(公認横綱の2人は共に熊本県出身)
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== 参考文献 ==
*「大相撲人物大事典」、2001年  ISBN 9784583036403
*酒井忠正「日本相撲史」中巻  1964年
 
== 関連項目 ==