「オットー3世 (バイエルン公)」の版間の差分

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[[Image:Ota3 Thurocsi.jpg|thumb|right|200px|下バイエルン公オットー3世]]
'''オットー3世'''(Otto III, [[1261年]][[2月11日]]、[[ブルクハウゼン]] - [[1312年]][[9月9日]]、[[ランツフート]])は、[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[バイエルン大公|下バイエルン公]](在位:[[1290年]] - 1312年)、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](オットー、Ottó, 在位:[[1305年]] - [[1307年]])。下バイエルン公[[ハインリヒ13世 (バイエルン公)|ハインリヒ13世]]の長男。母はハンガリー王[[ベーラ4世]]の娘エルジェーベト(エリーザベト)。
 
== 生涯 ==
1290年に2人の弟[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ3世]]、[[シュテファン1世 (バイエルン公)|シュテファン1世]]と共に公位を継承した(弟達は共にオットー3世に先立って死去している)。オットー3世は[[ハプスブルク家]]の[[ローマ王|ドイツ王]][[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]に対抗して、[[1180年]]に失った[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]の奪還に挑んだ。男系が断絶した[[アールパード朝]]の血を引くことからハンガリー王即位の要請を[[1301年]]に受けていたが、1305年にようやく受諾した。[[オーストリア]]やハンガリーの情勢と関わることで、オットー3世のバイエルンでの地位は弱体化し、最終的には財政問題でつまづいた。オットー3世はハンガリー史上では1301年から[[1310年]]までの空位時代の[[対立王]]とされる。