「バイエルン継承戦争」の版間の差分

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1777年12月、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]が死去し、これによってバイエルン系[[ヴィッテルスバッハ家]]は断絶した。バイエルンは同じヴィッテルスバッハ家の[[プファルツ選帝侯領|プファルツ選帝侯]][[カール・テオドール (バイエルン選帝侯)|カール4世フィリップ・テオドール]]が併せて継承することになった。
 
[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世]]がこれに介入する。[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]は以前ねがね[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]を自国に編入することを狙っていたが、[[スペイン継承戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]いずれのときも情勢の変化からこれを果たせなかった。ヨーゼフ2世は[[ポーランド分割]]に続く領土拡張の好機と考え、カール・テオドールにバイエルン選帝侯領の割譲を要求した。具体的には、下バイエルンと上プファルツである。カール・テオドールはバイエルンに対する統治意欲がなく、これを二つ返事で受け入れる。ヨーゼフは翌年1月には早くも下バイエルンに兵を進めて駐屯させた。
 
これに猛然と抗議したのが[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]である。大王はこれによってオーストリアが以前の勢力を盛り返すことを恐れた。オーストリアの拡大を阻止するため、大王はこの領土割譲に断固強く反対し、列強とドイツ諸侯に支持を求めた。[[ロシア帝国|ロシア]]、[[イギリス]]は大王に同調し、ドイツ諸侯も大王を支持してヨーゼフを非難した。これに対してヨーゼフは諸外国への根回しを怠っており、期待していた[[フランス王国|フランス]]の支持も得られず孤立する。やむなくヨーゼフは、一方的な割譲ではなく[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルランド]]との交換ではどうかと提案したが、大王は拒絶した。交渉は決裂し、開戦に至る。
 
== 経過 ==