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'''里見 義弘'''(さとみ よしひろ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[安房国]]の[[大名]]。[[安房里見氏]]の第6代当主。
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このため、里見氏の勢力は一時衰退したが、永禄10年([[1567年]])に義弘は[[三船山の戦い]]で北条軍を撃破して勢力を挽回し、[[佐貫城]]を本拠地として安房国から上総国・[[下総国]]にかけて領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を誇った。
しかし永禄12年([[1569年]])、上杉謙信と[[北条氏政]]
天正6年([[1578年]])、[[久留里城]]にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子とも)・[[里見義頼|義頼]]と嫡男・[[里見義重|梅王丸]]への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招いた。
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== 統治 ==
義弘は落首を推奨し、民衆からの声を統治に反映させていた。『里見九代記』によると義弘が領内を見回っている際に
▲・福原の都人とは聞きつれど 年貢につけてしなのあしさよ
という落首を見つけ、これが福原信濃守の年貢徴収の不正を告発したものであると知り、福原に処分を下している。
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[[category:戦国大名]]
[[category:戦国武将]]
[[Category:安房国の人物]]▼
[[Category:1530年生]]
[[Category:1578年没]]
▲[[Category:安房国の人物]]
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