「今村昌平」の版間の差分

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今村が松竹から日活へ移籍した後、師匠である[[川島雄三]]が同じく日活に移籍、また監督試験で「松竹に落選」した[[浦山桐郎]]が[[鈴木清順]]監督の計らいで日活入所となった。川島は[[幕末太陽傳]]での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『[[にっぽん昆虫記]]』、『[[赤い殺意]]』などの製作を行なう。今村は常に川島を意識して、地方出身で都会志向の川島に対して、東北土着の「基層心理」をベースにした作風(本人の言葉で言えば重喜劇)をこのとき確立させた。のちに今村はこの基層心理を推し進めてドキュメントタッチの作風に変化して行ったが、主人公は常に庶民であり、有名人の故事来歴的作品は一切取り上げなかった。
 
師匠[[川島雄三]]についての追悼録、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』では、川島の生涯を実証的に取り上げ、川島が[[筋萎縮性側索硬化症|ALS]]に侵されながらそれを一切他言せず、最後まで映画製作の現場に立っていたことを取り上げた。今村は総じて女性を肉感的に表現することを好み、作品には『うなぎ』も含め多くの作品で女優の[[ヌードシーン]]が登場している。また『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』の女優の放尿シーンは[[映像倫理審査会]]の規定に触れるとして物議をかもした事がある。{{要出典|date=2010年7月}}
 
== 経歴 ==