「辛亥革命」の版間の差分

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{{保護依頼}}
{{基礎情報 蜂起
|名称 =辛亥革命|画像 =Xinhai Revolution in Shanghai.jpg
|300px
|種類 =民主主義革命
|目的 =清打倒と共和制国家の樹立及び南京を首都とした中華民国政府成立(1911年~1949年期間において中国代表国家となる首都南京市の共和制国家[[中華民国]]が建国された)
|目的 =清打倒と共和制国家の樹立
|対象 =清国
|結果 =古代より続いた[[君主制]]が廃止され、[[立憲君主制]]の導入も試みられたが、清王朝が非[[漢民族]]王朝であった為に[[共和制]]国家である[[中華民国]]が樹立された
|発生現場 = 中国大陸|指導者 =[[孫文]]、[[黄興]]、[[宋教仁]]、[[蔡元培]]、[[趙声]]、[[章炳麟]]、[[陶成章]]、[[蒋介石]]
|関連団体 =中国同盟会
|関連事象 =
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'''辛亥革命'''(しんがいかくめい)は、[[1911年]]([[宣統]]3年)から[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)にかけて、[[中国]]で発生した[[民主主義]][[革命]]である。名称は、革命が勃発した1911年の[[干支]]である[[辛亥]]に因む。
 
この結果、アジアにおいて史上初の[[共和制]]国家である[[中華民国]]が誕生した。
[[明治]]時代末期の日本に亡命中だった[[孫文]]が、モンゴル系[[満州族]]の少数民族王朝であった[[清]]王朝に替わる近代国家中華民国を建国した。当初の孫文は、日本の[[東京府]]で留学中に学んだ英国風「[[立憲君主制]]兼議院内閣制」を導入する体制も考慮したが国民の大多数を占める[[漢民族]]からすると異民族に該当する[[愛新覚羅氏]][[溥儀]]に関する事情も勘案し最終的に共和制を採用した。この結果、アジアにおいて史上初の[[共和制]]国家である[[中華民国]]が誕生した。
 
[[中華民国]]は建国時点で[[日清戦争]]以後の[[台湾島]]を除く範囲を統治する権利を得たが、全土を統治するに至らず、その後[[袁世凱]]による[[中華帝国]]体制などを経て[[第一次世界大戦]]にも[[連合国 (第一次世界大戦)]]で参戦した。[[第一次世界大戦]]期間中から[[ロシア帝国]]に対する反乱と[[ロシア革命]](1917年)及び[[ロシア内戦]]によって、1920年代には[[ソビエト連邦]]が隣国となり、その後中華民国国内でも、[[ヨシフ・スターリン]]に影響された[[毛沢東]]を首領とする赤軍([[八路軍]])が[[南京市]]を首都とする中央政府に対して反乱を起こした。その後毛沢東らは、[[中華ソビエト共和国]]を[[江西省]]に樹立し国内が分裂状態となったが、[[戦間期]]は国際社会における[[国際連盟加盟国]]として中華民国が中国政府として扱われる事は変わりなく、その後も外交を行った。以後[[1930年代]]までの期間を[[国共内戦]]によって内戦状態となったが、[[蒋介石]]総統率いる[[国民党軍]]([[中華民国軍]])は、[[張作霖]]や[[毛沢東]]らの軍閥が群雄割拠する状態を鎮圧出来ず、最終的に[[西安事件]]以降の[[国共合作]]によって国共内戦の結果は出ず、[[日中戦争]]以後の[[冷戦期]]初期[[1949年]]([[北京市]]を首都とする[[毛沢東]]による[[中華人民共和国]]建国)までの期間、[[中華民国]]が[[中国大陸]]の全土に対する統治権を持ち、国際的には中国代表政府として行動していた。
 
==概説==
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辛亥革命の'''[[スローガン]]'''は「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
 
狭義では、[[1911年]][[10月10日]][[夜]]に発生した[[武昌起義]]から、[[1912年]][[2月12日]]の[[愛新覚羅溥儀|宣統帝(溥儀)]]の退位までの期間を指す。広義では、清末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示す。辛亥革命の理念と成果は、[[袁世凱]]を中心とする[[北洋軍閥]]により撤回され、地権平等も実現しなかった。この革命は[[アジア]]で初の[[共和立憲君主]]国家樹立採用、古代り続いたうとするも[[君主政愛新覚羅氏]]の伝統を終わらせ自体がモンゴル系[[中国満州民族]]の歴史出自である事は明らかだったため画期をもたらし共和制が孫文によって採択された。辛亥革命により[[元号]]は改められ、[[民国紀元]]が採用された。
 
<!--辛亥革命が西欧を含めた20世紀のいくつかの君主制廃止の直接の要素だったかのような記述は独自研究。また元号の改定が特筆されるべきというのも無用の強調。-->