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有職故実に詳しく、父忠平の教命を受け(忠平の教命は、実頼が『小野宮故実旧例』として纏めた)、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。
 
また、[[日記]][[清慎公記]]』(『水心記』ともいう)を著していたことが『[[小右記]]』等の逸文によって知られる。なお、[[藤原公任]]が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の[[藤原実資]](公任・実資ともに実頼の孫)の憤激を買っている<ref>『小右記』寛仁4年8月18日条</ref>。その部類記も[[長和]]4年([[1015年]])の[[藤原教通]]邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『[[北山抄]]』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』のことと考えられている。なお、実頼は忠平の『[[貞信公記]]』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場することから、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている。
 
[[和歌]]に秀で、歌集『清慎公集』があるほか、『[[後撰和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に34首が採録されている<ref>『勅撰作者部類』</ref>。ほかに[[笙]]・[[箏]]の名手として知られ、特に箏は[[醍醐天皇]]より学んでいる。
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* 小野宮第の四足門に[[菅原道真]]の霊が来て、実頼と終夜対談したといわれている(『富家後談』)。
* 師輔の亡霊が生前実頼家の子孫断絶の祈願をしたことを語ったという話を、実頼孫[[藤原実資]]が[[観修]]僧都から聞き、「骨肉と云ふと雖も、用心あるべきか」と述べた(『小右記』)。
* 村上天皇の御前で、実頼が、師輔と醍醐天皇皇女康子内親王の密通を暴露した(『大鏡』『[[中外抄]]』)。『[[栄花物語]]』に「いとたはしき(淫しき)」と評価される程、師輔が好色であったのに対し、実頼が当時の貴族としては珍しく堅物であったという。また、『[[中外抄]]』([[藤原忠実]]の語録)は、摂関家の言い伝えとして「九条殿(師輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という記述がある。
* 実頼薨去の折、諸人が小野宮第の門前に集まって挙哀した。(『富家語談』)
 
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** 清慎公集
*** 逢ひみても 恋にも物の かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな
 
== 脚注 ==
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== 研究文献 ==
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* 立花真直「藤原実頼・頼忠にみる関白の政治的意味」(「国史学」197 平成21年)
* 渡辺滋「冷泉朝における藤原実頼の立場-『清慎公記』逸文を中心に」(「日本歴史」787 平成25年)
 
== 脚注 ==
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