「三国同盟 (1882年)」の版間の差分

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[[1870年]]~[[1871年]]の[[普仏戦争|独仏戦争]]で[[フランス]]に勝って成立したドイツ帝国では、宰相・[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の下、フランスを孤立化させて対独復讐を断念させる目的で[[ヨーロッパ|欧州]]各国との同盟外交を推進した。 その一環として、[[1882年]]、オーストリア、イタリアと三国同盟を締結する。
 
その後、[[ベルリン会議 (アフリカ分割)]|]などにおける対立により[[ロシア]]、[[イギリス]]との関係が悪化してビスマルク外交は破綻したが、三国同盟は維持され続け、[[1907年]]に成立したイギリス、フランス、ロシアの[[三国協商]]に対抗。[[1914年]]に始まった[[第一次世界大戦]]では、ドイツ、オーストリアが[[中央同盟国|同盟国]]を形成して協商3国などによる[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と戦った。
 
しかし、「[[未回収のイタリア]]」と呼ばれる[[南ティロル]]、[[トリエステ]]などを巡りオーストリアとの領土問題を抱えていたイタリアは、[[1902年]]には、ドイツがフランスを攻撃する際にはイタリアは参加しないことを約束した[[仏伊協商]]をフランスと結ぶなど、三国協商側に接近しつつあった。 そのイタリアが[[1915年]]4月、イギリスとの間に[[未回収のイタリア]]をイタリアに割譲することを約束した[[ロンドン秘密条約]]を秘密裏に結び、5月には連合国側に付いてオーストリアに宣戦したことにより、三国同盟は崩壊した。