「オーストラリアの歴史」の版間の差分

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メンジーズは、1966年に首相を辞して政界を去った。自由党・地方党連合はメンジーズ退陣後も、[[ハロルド・ホルト]] (Harold Holt) 、[[ジョン・マッキュエン]] (John McEwen)、[[ジョン・ゴートン]] (John Gorton) 、[[ウィリアム・マクマーン]] (William McMahon) の4首相を輩出した。4名はメンジーズの強い影響下にあったため、メンジーズ政権発足からマクマーン政権崩壊までの約23年間を「メンジーズ時代」と呼ぶ。メンジーズ後の出来事としては、アボリジナルへの公民権付与、[[経済協力開発機構]] (OECD) への加盟などが特筆される。
 
しかし、ホルトが在任中に不慮の死を遂げた<ref>1967年12月17日、ホルトは遊泳中に行方不明となった。捜索が行われたがホルトは発見されず、政府はホルトが死亡したとみられると発表。19日、マッキュエンがホルトを継いで首相に就任した。</ref>頃から、与党間の歪みが次第に表面化した。国防相[[マルコム・フレーザー|ジョン・マルコム・フレイザー]](John Malcolm Fraser:のち首相)がヴェトナム政策での対立から離反したのを切っ掛けに、ゴートンは自由党から不信任を突き付けられた。地方党との関係にも綻びが生じ、混乱に陥った自由党は、1972年12月の総選挙で[[ゴフ・ホイットラム|ゴフ・ウィットラム]]率いる労働党に政権を明け渡した。
 
===ウィットラム政権===