削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
24行目:
 
===戦闘の経緯===
戦いはもつれ、共王が晋の大夫の[[錡]]に目を射られて負傷するほどの混戦となった。共王は怒り、家臣の[[養由基]]に命じて一矢で以て射殺させた。しかし、共王の負傷に動揺した楚軍の意気は振るわなくなった。
 
そこで共王は夜になって{{仮リンク|子反|zh|子反}}を招き、翌日の作戦について相談しようとしたが、あろうことか子反は酒に酔い潰れ、共王の御前に出ることが出来なかった。共王はこれを知って楚軍の敗退を予見し、その日のうちに陣を抜けて首都[[郢]]に帰った。
31行目:
戦後、子反は戦いの最中の失態を子重に責められて自殺する<ref>『[[春秋左氏伝]]』の記述より。『[[史記]]』楚世家の記述では、撤退直前に陣中で誅殺されている。</ref>。
 
勝った晋であったが、厲公がこの勝利により増長し、この後の晋に災いが来る事を恐れた士燮は家臣に己を呪わせて死ぬ。その後の厲公は威勢を頼んで国内の豪族達を廃して公室の力を取り戻そうと画策し、大族・郤氏の[[卿]]三人を殺した。しかし、これで自分達もそうなるのではと恐れた[[欒書]]と[[中行偃|荀偃(中行偃)]]によって殺されることになった。
 
先立っての[[ヒツの戦い|邲の戦い]]で楚へと傾いていた覇権はこの戦いの勝利により晋へと傾く。厲公が殺された後に晋では名君[[悼公 (晋)|悼公]]が登場して覇権を確たるものとする。