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==来歴・人物==
===生い立ち===
愛知県[[蒲郡市]]出身。[[旗本]]・竹本家代官の分家の子孫で、現在の蒲郡駅南付近で、人力車の家に生まれる。1907年蒲郡南部尋常高等小学校を卒業し、蒲郡北部小学校の代用教員をしていたが、1912年、東京麹町の人力車製造工場などで働きながら、苦学生活に入る。父母を困窮から救うため、車引きや新聞配達などの通学に支障のない仕事をしながら、旧制[[海城中学]]を経て[[早稲田大学]]政治経済学部を卒業するまでに、8年を費やした。(蒲郡市発行『蒲郡市史 本文編2 近世編』および蒲郡市小中学校教職委員会・蒲郡市教育委員会編『蒲郡の人』による)
 
大学卒業後は、ジャーナリストとなり、『[[報知新聞]]』・『[[大正日日新聞]]』・『東京日日新聞』(現・『[[毎日新聞]]』)などの記者となり、主に経済部に所属して、経済ジャーナリストとして知られた。1918年に特派員として[[シベリア]]にわたるが、その際、[[シベリア出兵]]を企てる軍部の陰謀を目の当たりにしたことで、軍部に対する不信を強め、以後、一貫して戦争反対を主張していくことになる。その後も度々、特派員として[[ソビエト連邦|ソ連]]を訪れてソ連の[[社会主義]]を目の当たりにしたことと幼少期に極貧生活を実体験したことから、次第に社会主義思想を身に着けるようになった。また、東京日日新聞記者時代には雑誌『[[労農]]』の同人となり、“薄茂人(すすき・もじん)”のペンネームで執筆をおこなっている。