「エドマンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)」の版間の差分

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[[ファイル:Edmund of Langley 2C Duke of York.jpg|180px|thumb|right|初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー]]
初代[[ヨーク公]]'''エドマンド・オブ・ラングリー'''('''Edmund of Langley, 1st Duke of York''', [[1341年]][[6月5日]] - [[1402年]][[8月1日]])は中世[[イングランド王国|イングランド]]([[プランタジネット朝]])の王族で、国王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]と王妃[[フィリッパ・オブ・エノー]]の第5子で四男である。[[エドワード黒太子]]、[[クラレンス公]][[ライオネル・オブ・アントワープ]]、[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]]の弟、[[グロスター公]][[トマス・オブ・ウッドストック]]の兄。
 
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== 経歴 ==
1341年、エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの子として生まれた。中世イングランドの王子の多くがそうであったように、彼にも出生の地である[[ハートフォードシャー]]の[[キングス・ラングリー]]にちなんで、「エドマンド・オブ・ラングリー」というニックネームが付けられた。[[1362年]]に21歳で[[ケンブリッジ伯]]に列せられたエドマンドは、[[13771363年]]に策略で[[リチャーフランル伯]][[ルイ2世 (フラドル伯)|ルイ2世]]の1人娘で相続人の[[マルリット3世 (フランドル女伯)|マルグチャード2世ット]]が即位する摂政になり結婚が予定されていたが、[[1385年フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の妨害で[[婚姻の無効|無効]]にはヨーク公に列せられた<ref>尾野、P23、佐藤、P102。</ref>
 
[[1377年]]に甥の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]が即位するとその補佐を行う評議会の一員になり、[[1385年]]にはヨーク公に列せられた<ref>森、P160 - P161、P164、川北、P106、P110、ロイル、P32 - P33、P52。</ref>。しかし[[1399年]]、リチャード2世が[[アイルランド]]へ遠征に出かけると留守の守備を任されたが、その隙に別の甥ヘンリー・ボリングブルック(後の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]])が挙兵、たちまち大勢の貴族がボリングブルックに寝返ると麾下の部隊が降伏した。ヨーク公は急遽帰国したリチャード2世と合流したが、彼が廃位されボリングブルックがヘンリー4世として即位すると引退、1402年に出生地キングス・ラングリーで61歳で亡くなり、遺体は同地の[[托鉢修道会]]の教会に埋葬された<ref>森、P167 - P169、尾野、P24、川北、P113、ロイル、P80 - P81。</ref>。
最初の妻[[イザベラ・オブ・カスティル]]は、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]][[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]と[[マリア・デ・パディーリャ]]の娘で、三兄ジョン・オブ・ゴーントの2番目の妻[[コンスタンス・オブ・カスティル|コンスタンス]]の妹であった。彼らは2男1女をもうけた。
 
== 家族 ==
最初の妻[[イザベラ・オブ・カスティル]]は、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]][[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]と[[マリア・デ・パディーリャ]]の娘で、三兄ジョン・オブ・ゴーントの2番目の妻[[コンスタンス・オブ・カスティル|コンスタンス]]の妹であった<ref>森、P231、尾野、P24。</ref>。彼らは2男1女をもうけた。
* [[エドワード・オブ・ノリッジ]](1373年 - 1415年10月25日) - 第2代ヨーク公。[[アジャンクールの戦い]]で戦死する。
* コンスタンス・オブ・ヨーク(1374年頃 - 1416年11月29日) - グロスター伯[[トマス・ル・ディスペンサー (初代グロスター伯)|トマス・ル・ディスペンサー]]([[ヒュー・ル・ディスペンサー (小ディスペンサー)|小ディスペンサー]]の曾孫)と結婚。[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]王妃[[アン・ネヴィル]]の母方の曾祖母。
* [[リチャード・オブ・コニスバラ]](1375年頃 - 1415年8月5日) - 第3代ケンブリッジ伯。[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]に対する反逆罪で処刑される。リチャード・プランタジネットの父。
 
[[1392年]]にイサベラが他界すると、[[ケント公|ケント伯]][[トマス・ホランド (第2代ケント伯)|トマス・ホランド]]の娘で又従姉妹にあたるジョウン・ドゥ・ホランド<ref>エドマンドもジョウンも[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の血を引いている。</ref>と再婚するが子供は生まれなかった。1402年、出生地キングス・ラングリーで亡くなり、遺体は同地の[[托鉢修道会]]の教会に埋葬された。
 
;注
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<references/>
</div>
==系図==
{{イングランド王室ヨーク朝}}
 
== 外部リンク ==
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* [[尾野比左夫]]『バラ戦争の研究』[[近代文芸社]]、1992年。
* [[川北稔]]編『新版世界各国史11 イギリス史』[[山川出版社]]、1998年。
* [[佐藤賢一]]『英仏百年戦争』[[集英社]]([[集英社新書]])、2003年。
* [[トレヴァー・ロイル]]著、[[陶山昇平]]訳『薔薇戦争新史』[[彩流社]]、2014年。
 
== 関連項目 ==
* [[リチャード二世 (シェイクスピア)]] - [[ウィリアム・シェイクスピア]]の戯曲。登場人物の1人。
 
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