「ミハイル1世 (キエフ大公)」の版間の差分

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'''ミハイル1世(ミハイル・ユーリエヴィチ)'''([[ベラルーシ語]]: {{Lang|be|Михаил Юриевич}}、[[ロシア語]]: {{Ru|Миха́лко (Михаи́л) Ю́рьевич}}、[[ウクライナ語]]: {{Lang|uk|Михайло (Михалко) Юрійович}}、? - [[1176年]])は、[[ユーリー・ドルゴルーキー]]の子。[[ウラジーミル大公]]:[[1174年]]、[[1175年]]‐1176年。一時[[キエフ大公]]の座にも就いた。
 
[[1162年]]ごろ、兄アンドレイ・ボゴリュブスキー[[:ru:Андрей Юрьевич Боголюбский|(ru)]](当時ウラジーミル大公。)によって[[スーズダリ]]から追放された。なお、ロシアの歴史学者ヴァシリー・タチーシチェフ([[1686年]] - [[1750年]])([[:ru:Татищев, Василий Никитич|ru]])は、ミハイルの行き先は[[ゴロジェッツ]]であったと推測している。
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[[1170年]]、ポロヴェツ族から[[ペレヤスラヴリ]]を防衛した。1172年、兄アンドレイにより、キエフ大公に任命された。この時ミハイルは、弟の[[フセヴォロド3世]]をモノマフ一門により包囲されていたトルチェスクに派遣し同地に留任させた。[[1173年]]には、アンドレイと共に数ヶ月にわたって、キエフ大公の座をめぐる闘争に参加した。
 
[[1174年]]、アンドレイの死によりウラジーミル公となったが、[[スーズダリ]]の人々と反目し、一時[[チェルニゴフ]]へ去った。しかし、[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の人々からは招かれため、1175年に再び公位についた。その後一年間統治に携わったのち、[[1176年]]に死去した。
 
==出典==
*{{Ru|[http://krotov.info/acts/12/pvl/lavr.htm Лаврентьевская летопись]}} {{Ru icon}}
*{{Ru|[http://www.krotov.info/acts/12/pvl/ipat0.htm Ипатьевская летопись]}} {{Ru icon}}
 
== 参考文献 ==
*{{Ru|Фроянов И. Я.,''Древняя Русь IX-XIII веков. Народные движения. Княжеская и вечевая власть'', Moscow: Русский издательский центр}} {{Ru icon}}, 2012, pp. 583—586.
 
 
{{キエフ大公一覧}}
 
{{DEFAULTSORT:みはいる1}}
[[Category:キエフ大公]]