「大忠臣蔵 (1957年の映画)」の版間の差分

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| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 製作総指揮 = [[城戸四郎]]
| 製作 = 白井和夫
| 監督 = 大曾根辰夫
| 脚本 = [[井出雅人]]
| 原案 =
| 原作 =
| 製作 = 白井和夫
| 製作総指揮 = [[城戸四郎]]
| ナレーター =
| 出演者 = [[市川猿翁 (初代)|市川猿之助]]<br/>[[市川猿翁 (2代目)|市川団子]]<br/>[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]<br/>[[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎]]
| 音楽 = [[鈴木静一]]
| 主題歌 =
| 撮影 = [[石本秀雄]]
| 編集 = 相良久
| 制作会社 =
| 製作会社 = [[松竹京都撮影所]]
| 配給 = [[松竹]]
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『'''大忠臣蔵'''』(だいちゅうしんぐら)は、[[1957年]](昭和32年)[[8月10日]]公開の[[日本映画]]である。[[松竹]]製作・配給。監督は大曾根辰夫。[[忠臣蔵]]映画としては2本目の[[カラー映画|総天然色]]であり、初めての[[画面アスペクト比|ワイドスクリーン]]作品である。
==概要==
[[歌舞伎]]の伝統を守り続けてきた松竹が『[[仮名手本忠臣蔵]]』に基づいて製作された作品で、「お軽勘平」のエピソードを盛り込んで描き、当時の歌舞伎界からの出演者が多い作品である。大石内蔵助には[[市川猿翁 (初代)|市川猿之助(初代市川猿翁)]]、浅野内匠頭には北上弥太郎、吉良上野介には[[石黒達也 (俳優)|石黒達也]]、立花左近に[[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎(初代松本白鸚)]]、早野勘平に[[高田浩吉]]、清水一角に[[大木実]]、当時若手であった[[市川猿翁 (2代目)|市川団子(2代目市川猿翁)]]が大石主税、[[松本幸四郎 (9代目)|市川染五郎(九代目松本幸四郎)]]が矢頭右衛門七に配し、初代猿翁と二代目猿翁の祖父と孫が内蔵助・主税親子を演じ、八代目と後の九代目松本幸四郎が共演し、女優陣でも[[山田五十鈴]]と[[嵯峨三智子]]の親子共演で当時の松竹ならではの豪華さであった<ref>『戦後忠臣蔵映画の全貌』谷川健司 著 118P参照</ref>。[[イーストマン・カラー|イーストマンカラー]] [[画面アスペクト比|松竹グランドスコープ]] 155分。
==再公開==
1950年代半ばから60年代初め頃に映画界では忠臣蔵がブームとなり、毎年のように忠臣蔵が上映された。1954年に「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(松竹版)、1956年「[[赤穂浪士 天の巻 地の巻]]」(東映)、1957年「大忠臣蔵」(松竹)、1958年「[[忠臣蔵 (1958年の映画)|忠臣蔵]]」(大映)、1959年に「[[忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻]]」(東映)、1961年に「[[赤穂浪士 (映画)|赤穂浪士]]」(東映)、1962年に「[[忠臣蔵 花の巻・雪の巻]](東宝版)などで、東映は3本製作し大映と東宝は1本で、松竹は2本製作された。しかし、東映が時代劇王国と言われるほど隆盛する一方で、松竹の時代劇は衰退の一方で松竹の抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優を脇に固める形でのオールスターキャストを組んでいた。これが1961年に近衛十四郎が(高田幸吉もすでに)東映に移籍し、同じく八代目松本幸四郎以下の歌舞伎俳優が大挙して東宝に移って、松竹時代劇は打撃を受けた。1962年秋に忠臣蔵の上映を目指して、この「大忠臣蔵」を再編集し短縮した版を「仮名手本忠臣蔵」としてこの再編集版に併映して四十七士の最期を描いた「義士始末記」を製作して二本立てで9月9日にリバイバル公開した。この「義士始末記」の主演には新国劇から島田正吾を起用して、岡田茉莉子、岩下志麻らが脇を固め、やがて松竹は京都の撮影所を閉鎖して時代劇の製作を縮小して、女優王国として独自の道を行くこととなった<ref>『戦後忠臣蔵映画の全貌』谷川健司 著 164-165P参照</ref>。
==スタッフ==
*監督:大曾根辰夫
*製作総指揮:[[城戸四郎]]
*製作:白井和夫
*監督:大曾根辰夫
*脚本:[[井出雅人]]
*撮影:[[石本秀雄]]
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*幇間伴八:[[伴淳三郎]]
*立花左近:[[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎(初代松本白鸚)]]
==仮名手本忠臣蔵==
 
後に『[[仮名手本忠臣蔵]]』と改題されて再公開されたように、歌舞伎の演目を映画化した作品で、中心になるのは三段目、四段目、五段目、六段目、七段目、九段目、十一段目である。それに加えて本来の『仮名手本』原作にはない大石東下りの三島宿での出会い、南部坂の[[瑤泉院]]との雪の別れの場面が追加され、また『仮名手本』が実名の役を作らなかったがこの作品では実名で知られている役はそのままで、大星由良之助や塩治判官が大石内蔵助と浅野内匠頭、その逆は松の廊下で刃傷後に吉良上野介とぶつかる脇坂淡路守を原作通り桃井若狭之助、浅野内匠頭を止めにかかるのも原作通り加古川本蔵、寺坂吉右衛門は原作通りなら寺岡平右衛門だがこの映画では寺坂平右衛門としている。大石東下りの三島宿での遭遇では立花左近を大石が名乗りそこへ本物が現れる話が多いが、この映画では『仮名手本』原作にある垣見五郎兵衛を語りそこへ垣見五郎兵衛をよく知る立花左近が現れるという筋立てである。そしてこの映画はおかると早野勘平の悲恋を主軸にして、史実と虚構が入り混じった話の展開で、基本は『[[仮名手本忠臣蔵]]』をベースに映画的リアリズムとの調和を志向しているのがこの映画の特徴である<ref>『戦後忠臣蔵映画の全貌』谷川健司 著 117-118P参照</ref>。
==再公開==
1950年代半ばから60年代初め頃に映画界では忠臣蔵がブームとなり、毎年のように忠臣蔵が上映された。1954年に「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(松竹版)、1956年「[[赤穂浪士 天の巻 地の巻]]」(東映)、1957年「大忠臣蔵」(松竹)、1958年「[[忠臣蔵 (1958年の映画)|忠臣蔵]]」(大映)、1959年に「[[忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻]]」(東映)、1961年に「[[赤穂浪士 (映画)|赤穂浪士]]」(東映)、1962年に「[[忠臣蔵 花の巻・雪の巻]](東宝版)などで、東映は3本製作し大映と東宝は1本で、松竹は2本製作された。しかし、東映が時代劇王国と言われるほど隆盛する一方で、松竹の時代劇は衰退の一方で松竹の抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優を脇に固める形でのオールスターキャストを組んでいた。これが1961年に近衛十四郎が(高田幸吉もすでに)東映に移籍し、同じく八代目松本幸四郎以下の歌舞伎俳優が大挙して東宝に移って、松竹時代劇は打撃を受けた。1962年秋に忠臣蔵の上映を目指して、この「大忠臣蔵」を再編集し短縮した版を「[[仮名手本忠臣蔵]]」としてこの再編集版に併映して四十七士の最期を描いた「義士始末記」を製作して二本立てで9月9日にリバイバル公開した。この「義士始末記」の主演には新国劇から島田正吾を起用して、岡田茉莉子、岩下志麻らが脇を固め、やがて松竹は京都の撮影所を閉鎖して時代劇の製作を縮小して、女優王国として独自の道を行くこととなった<ref>『戦後忠臣蔵映画の全貌』谷川健司 著 164-165P参照</ref>。
==参考文献==
*『戦後忠臣蔵映画の全貌』谷川健司 著  集英社 2013年11月発行