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[[Image:35 History of the Russian state in the image of its sovereign rulers - fragment.jpg|thumb|250px|「モンゴルのハーンの前に引き出されたミハイル・ヤロスラヴィチ公」[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン]]画]]
'''ミハイル・ヤロスラヴィチ'''('''{{Lang|ru|Михаил Ярославич}}'''、[[1271年]] - [[1318年]][[11月22日]])は、最初[[トヴェリ公]]([[1285年]] - [[1318年]])、[[従兄弟]][[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]の死後[[ウラジーミル大公]](在位:[[1304年]]-1318年)。別名'''トヴェリのミハイル'''。[[モスクワ大公国|モスクワ]]の{{仮リンク|[[ユーリー3世 (モスクワ大公)|en|Yury of Moscow|label=ユーリー3世}}]]のライヴァルであり、[[サライ (都市)|サライ]]で[[処刑]]された。[[正教会]]の[[聖人]]。
 
== 生涯 ==
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*1312年 - ノヴゴロドと対立、代官を引き上げる。
*1313年 - [[ジョチ・ウルス]](キプチャク汗国)の新ハンである[[ウズベク・ハン]]の許に向かい、ヤルルィクを得る。1315年に帰国。
*1317年 - ウズベク・ハンは、モスクワ大公{{仮リンク|[[ユーリー3世 (モスクワ大公)|en|Yury of Moscow|label=ユーリー3世}}]]にウラジーミル大公の称号を与え、また援軍を送った。この年[[12月22日]]、ミハイルはユーリー軍をトヴェリから40km離れたボルテネヴォに破った。翌1318年に、この戦いについての申し開きを求められたミハイルは、ウズベク・ハンの宮廷がある[[サライ (都市)|サライ]]に向かい、そのまま11月に、ユーリー3世の奸計にかかりユーリーの奴隷に刺殺された。
*1319年9月 - ミハイルの遺骸がトヴェリに戻された。後日、[[ロシア正教会]]はミハイルを[[列聖]]し、トヴェリの[[守護聖人]]とした。