「河上肇」の版間の差分

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そして[[1932年]]、河上自身が[[日本共産党]]に入党して、その地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「赤旗」の編集を助け、政治パンフレット作りに参加し、その執筆にあたることだった。この間にした仕事で最も知られているのは、コミンテルンが発表した32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)をいちはやく入手して翻訳し、それを党名の本田弘藤名義で「赤旗」特別号に発表したことである。
 
[[1933年]]、[[中野区]]で検挙され、[[治安維持法]]違反で[[豊多摩刑務所]]に収監される(のち[[市ヶ谷刑務所]])。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明と[[転向]]を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、[[曹操]]や[[陸游]]の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。[[1937年]](昭和12)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。[[1941年]]京都に転居。終戦後、活動への復帰を予定したが、[[1946年]]に逝去。享年68。[[1947年]]、『自叙伝』が刊行される。
 
== 著作 ==