「プロレスリングZERO-ONE」の版間の差分

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[[2000年]][[4月7日]]、[[新日本プロレス]][[東京ドーム]]大会で[[橋本真也]]は[[小川直也]]との5度目のシングル戦に挑むことになった。その際に自らの引退をかけることになった。だが小川に敗れて公約通り引退。しかし熱心なファンの[[米川力|折り鶴兄弟]]から送られた百万羽の[[折り鶴]]をきっかけに[[8月23日]]、引退撤回を表明。[[10月9日]]、新日本プロレス東京ドーム大会で復帰。復帰後、橋本は他団体との対抗戦に意欲を燃やして新日本に団体内組織「新日本プロレスリングZERO」の設立を表明。これは橋本の後見人的立場をとっていた[[藤波辰爾]]が[[長州力]]ら当時の主流派に対抗する目的で設立を後押ししたという説もある。しかし、このことは新日本の上層部との対立を招いた。原因は新日本が[[全日本プロレス]]との交流を進めていたのに対して橋本が[[プロレスリング・ノア]]との対抗戦を望んでいたことが対立の主因とされる。[[11月13日]]、橋本の完全独立宣言とともに新日本は橋本を解雇。
 
[[2001年]][[1月25日]]、橋本は[[大谷晋二郎]]、[[高岩竜一]]、営業部の[[中村祥之]]など自身の趣旨に賛同して新日本を退団、退社したスタッフと共にZERO-ONEを設立するして橋本が代表取締役社長、中村が専務取締役至った就任。[[3月2日]]、[[両国国技館]]で旗揚げ戦を開催。その後、ノアの協力、小川の参戦、[[武藤敬司]]が率いる全日本との対抗戦なども有り徐々に規模を拡大。[[2003年]]5月、[[テレビ東京]]が月1回のペースで「[[破壊王プロレスZERO-ONE]]」と題して地上波放送を開始。[[2004年]]8月、橋本が左肩手術のため欠場すると主力外国人選手を[[FEG]]に引き抜かれるなどして興行不振に陥り新日本との対抗戦実現を巡って橋本と所属選手、フロントとの意見対立も表面化。[[11月25日]]、橋本は記者会見を行い活動停止を発表。この時点で有限会社ゼロ・ワンが抱えていた負債は約1億円といわれる。橋本を除く元所属選手は元専務取締役の中村が[[ファースト・オン・ステージ]]を設立して[[ZERO1|プロレスリングZERO1-MAX]](現:プロレスリングZERO1)の団体名の下に再出発。
 
== 伝説の旗揚げ戦 ==