「三浦義澄」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[相模国]][[三浦郡]]矢部郷の出身。具体的な時期は不明ながら、[[平常澄|上総常澄]]の[[加冠]]によって[[元服]]し'''義澄'''と名乗ったとされる<ref>野口、1994年。 </ref>{{Refnest|group="注釈"|元服にあたっては、それまでの[[童名]]([[幼名]])が廃されて、加冠役を勤める[[烏帽子親]]から[[仮名 (通称)|仮名]]([[通称名]])と[[実名]]([[諱]])が与えられるが、その際にその実名の一字([[偏諱]])の付与がなされることが多く<ref>山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)より</ref>、常澄と義澄に共通する「澄」の字がそれにあたることが分かる(山野論文(山本、2012年、p.163~168)にも類似した例が紹介されている)。<ref>山本、2012年、p.163~168</ref>)。}}
 
[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]では[[源義平]]に従うが、[[伊勢平氏|平家]]方に敗れて京都から郷里に落ち延びる。[[長寛]]2年([[1164年]])、兄・[[三浦義宗|杉本義宗]]が39歳で亡くなり、それによって[[三浦氏]]の家督を継ぐ。
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この頃、平家側についていた妻の父である[[伊東祐親]]が捕らえられ、その身を預かる事となり、義澄は頼朝に祐親の事を許させるが、祐親は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。
 
義澄は[[千葉常胤]]、[[上総広常]]、[[土肥実平]]らと共に頼朝の宿老となり、その後も[[一ノ谷の戦い]]や[[壇ノ浦の戦い]]、[[奥州合戦]]に参戦して武功を挙げる。[[建久]]元年([[1190年]])に頼朝が上洛した際、[[右近衛大将]]拝賀の[[布衣]]侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした<ref group="注釈">他の6名は、[[千葉胤正]]、[[工藤祐経]]、[[足立遠元]]、[[後藤基清]]、[[葛西清重]]、八田知重。</ref>。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の[[成功]]推挙が与えられた時、その1人に入ったが子の義村に賞を譲っている。
 
正治元年([[1199年]])、頼朝が死去した後には2代将軍・[[源頼家]]を補佐する[[十三人の合議制]]の一人となる。翌年、[[梶原景時の変]]で[[梶原景時]]の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。[[享年]]74。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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<references group="注釈" />
=== 出典 ===
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