「旧中国銀行上海ビル」の版間の差分

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中国銀行は上海支店を50万[[人民元]]をかけて設置し、この残りでビルを建築することにした。1934年の4月には理事会は業務管理と主要オフィスとして、また、上海支店としてに18階建てのビルを建設することを決定した。建築のために見込まれた費用は600万人民元だった。
 
もともとのデザインでは、ビルは34階建てで、極東最大のビルとなる予定であった。実際に、建築の基礎は34階建てのビルを建てるのに十分に強かった。しかし、[[ヴィクター・サッスーン]]は「私のビル([[旧サッスーンハウス|サッスーンハウス]])の隣に建てる建物が我がビルの屋根より高くなることは許さない」と主張した。[[上海租界]]の英国の上海施政府は「中国は建築設計の能力に乏しく、34階建てのビルを建てることは租界の周りのビルを害する」ことを理由として建築許可を拒んだ。最終的に中国銀行は半分程度に切り取られ、サッスーンハウスよりも高さが1フィート小さくなった。 <ref> Peace Hotel and Bank of China [http://www.shanghaipeacehotel.com/inde_2.htm] </ref>
 
銀行側が外灘に譲歩してでも事務所をほしがった理由は、Zhang Jia and Wang Aoによると、当時の取締役は「中国銀行は苦しみを甘受して反映した。」と考えており、「これまでに、インフラは改革されており、外灘の他のヨーロッパやアメリカの銀行と競争できるくらい強いと言うことを象徴するために、現代性、健全性、国際的信用を象徴する新しい建物が必要だった。」からだとされている。
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1934年9月、中国銀行はビルの建設に対処するために特別運営議会を設立した。これに海外事務所の本拠地と、上海支店の運営者であるBei Zhuyiが議長に選ばれた。デザインの草案は[[パーマー&ターナー]]、Lu Qianshou、中国銀行建築主任が共同で用意した。地域の会社である、Dao Kee建築会社が入札を勝ち取り、18ヶ月の工事予算として181万3千人民元の費用を求めた。
 
1935年、[[中華民国]]政府は[[中華民国中央銀行|中央銀行]]、[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]、[[交通銀行 (台湾)|交通銀行]]の再編を始めた。中国銀行は株式の80%80%を公衆が保有していたが、これは様々な勢力の略奪者の狙いとなった。中国銀行は1500万人民元分の政府の保有する株の追加を強要され、中国銀行は総資本は4000万人民元となり、半分を公衆が保有し、半分を政府が保有するようになった。このため、銀行の制御は政府機関の手に落ち、[[宋子文]]が中国銀行の議長になった。
 
1936年10月10日、宋子文は外灘23号で、新しい中銀ビルの基礎工事祝賀会の議長を務めた。このビルは1937年に骨組みが完成した。しかし、この後すぐ、[[第二次上海事変]]が勃発し、上海も抗日戦争の部隊となった。このため、工事の完成は延期されることになった。1941年、このビルは[[汪兆銘政権|南京国民政府]]の公営銀行として使われるようになった。
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== 脚注 ==
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<references />
 
== 外部リンク ==
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[[Category:上海の建築物]]