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明治時代の前半に多くの[[翻訳唱歌]]ができたが、[[日本語訳]]詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、[[日本人]][[作曲家]]による[[オリジナル]]の歌を望む声が高まっていた。彼の代表作である「[[荒城の月]]」は、「[[箱根八里]]」と並んで[[文部省]]編纂の「中学唱歌」に掲載された。また、人気の高い曲のひとつである「[[花 (瀧廉太郎)|花]]」は[[1900年]](明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「[[鳩ぽっぽ]]」(「[[鳩 (童謡)|鳩]]」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い[[童謡]]作品として知られるが、これらは[[1900年]]に編纂された幼稚園唱歌に収められた。また「荒城の月」は、[[ベルギー]]で[[讃美歌]]になったことも判明した。またピアニストとしては特に[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に私淑し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた。
 
[[1901年]](明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ[[留学生]]として出国し、5月18日に[[ドイツ]]の[[ベルリン]]に到着。同地で日本語教師を務めていた文学者の[[巌谷小波]]や、ヴァイオリニストの[[安藤幸|幸田幸]]、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者、[[吉本光蔵]](後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を、共に室内楽を演奏したりした。さらに[[ライプツィヒ]]に向かい、[[フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学|ライプツィヒ音楽院]](設立者:[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]])に入学する。文部省外国留学生として入学、ピアノや[[対位法]]などを学ぶが、わずか5か月後の11月に[[結核#肺結核|肺結核]]を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。[[1902年]](明治35年)7月10日にドイツを発ち、[[ロンドン]]を経由して10月17日に横浜に着く<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)172頁</ref>。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、[[1903年]](明治36年)[[6月29日]]午後5時に[[大分市]]稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。{{没年齢|1879|8|24|1903|6|29}}(満24歳)。結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。作曲数が多かったと考える者もいるようだが、現在はっきりとその存在が確認されている作曲作品は34曲と決して多くはない(編曲作品も幾多か現存)。
 
瀧家の墓所は[[日出町]]の龍泉寺である<ref>[http://hijinavi.com/watching/rentaro-grave/ 日出町観光サイト ひじナビ 龍泉寺]</ref>が、瀧は父と親交のあった大分市金池町の[[万寿寺 (大分市)|万寿寺]]に葬られた。戒名は直心正廉居士。