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'''小笠原 長幹'''(おがさわら ながよし、[[1885年]]([[明治]]18年)[[3月2日]] - [[1935年]]([[昭和]]10年)[[2月9日]])は最後の[[小倉藩]]主[[小笠原忠忱]]の長男。伯爵。
 
弟に[[小笠原長丕|長丕]]([[小笠原貞孚]]養子)、妹に[[津軽英麿]]正室、百子([[尚昌]]室)。妻は[[阿部正桓]]の長女・貞子。子に明子([[多久龍三郎]]室)、春枝([[久松定武]]室)、[[小笠原忠春|忠春]]、[[小笠原忠幸|忠幸]](長丕養子)、[[小笠原日英|日英]]、[[小笠原忠統|忠統]]、鞠子([[伊達興宗]]室)。
 
1897年(明治30年)3月、家督を相続する。[[学習院大学]]卒業後、[[イギリス]]の[[ケンブリッジ大学]]に留学。帰国後に式部官、[[1918年]]([[大正]]7年)[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員となる。[[1920年]](大正9年)に[[陸軍省]]参事官、[[1922年]](大正11年)に国勢院総裁、その後行政制度審議会委員などを歴任する。東京浅草の[[海禅寺]]に葬られたが、のちに[[多磨霊園]]に改葬。