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== 生涯 ==
父は保険組合の理事。生まれてまもなく[[セイロン島|セイロン]]へ移り、5歳の頃まで過ごす。その後は移住好きの父の意思で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]と転じ、[[オンタリオ州]]ブラントフォードの学校に通う。帰国後は[[ブリストル]]のクリフトン・カレッジで学ぶかたわら[[クリケット]]の選手として活躍した後、奨学金を得て[[王立演劇学校]]でも学び、[[1934年]]から[[ロンドン]]の舞台に立つ。[[第二次世界大戦]]中は[[1940年]]から3年間従軍、落下傘部隊として[[ナチス]]占領下の[[ノルウェイ]]に降下し、またシシリー進攻にも参加するなど活躍して[[戦功十字章]]を受けている。帰還後の[[1944年]]9月8日にロンドンの舞台で共演したヘレン・チェリーと結婚。[[1945年]]に映画デビュー。戦後にかけて、重厚な存在感を持つ俳優として活躍し、[[デヴィッド・リーン]]の『逢びき』をはじめ『[[ライアンの娘]]』の神父役など、[[キャロル・リード]]の『[[第三の男]]』などの出演で知られた。1988年1月7日午後、[[インフルエンザ]][[気管支炎]]、[[黄疸]]の合併症のために死去した。
 
時代劇、歴史劇のコスチュームが似合う俳優であり、ヨーロッパの歴史上の人物を多く演じたほか、娯楽作品においても冒険物や、アドベンチャー、ファンタジー映画でも、貫禄ある王の役などで登場している。晩年の主演作『光年のかなた』では、いきいきとしたキャラクターで不可思議なファンタジーの世界に花を添えていた。